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なぜイライラしてしまうのか

あーイライラする!

毎年この時期、扶養認定のため、役所に所得証明をもらいに行く。去年は気まぐれでバイトしたので、今回はその明細も必要だった。ところが訳あって、その一部が手元にない。「それなら通帳でいいと思う」と親に言われて、そのコピーを渡すことになった。

その日の夕飯までに渡すと決め、家にあるプリンターでコピーするだけの簡単な作業だったはずが、慣れないせいか違うところを開けてしまい、なにやら「お待ちください」の表示とともに動き出してしばらく待たされた。夕飯まであと15分くらいしかない。

ようやく使えるようになったと思ったら、また同じミスをしてしまった。イライラしてコンセントを抜いた結果、さらに余計に時間がかかることに。このクソプリンターめ!

なんとかとかコピーを終え、一息ついて紙を置いたら、今度は扇風機で舞ってしまった。オーシット!ホーリーシット!

こんなにイライラすることはめったにない。ただコピーを取るだけなのに―。でも少し冷静になって振り返ってみると、別の側面が見えてくる。

不安がある

アルバイト先の人にお願いして、明細をもらわないといけないかもしれない。明細はWebで見るようになっていて、そういえば「扶養控除なんちゃらの手続きを期間内に済ませてください」というメールが何度も来ていた。僕には関係ないと思って無視していたが、まさかこんなことになるなんて。それから、親に通帳を見られるのも嫌だ。そういう不安があった

普段は扇風機で紙が舞ったくらいでイライラしないもんな。

自分の落ち度を認められない

僕に落ち度があったのにそれを認めることができず、「必要なら先に言えよ」とか、「アルバイト先の人が分かりやすく教えてくれなかった」とか、「どうしてこんな面倒な手続きが必要なんだ」とか、「プリンターが悪い」とか、なんとかして自分を正当化しようとする

イライラと不安は同じ感情なのか

僕はもう何年も、母に対して毎日何度もイライラしているが、それにも同じことが言える。

人のことを想いやっている風を装いつつ、自分の都合のいいように人を誘導しようとする母。知ったかぶり、マウンティング、言い訳や自分語りが絶えない母。

「そんな母に問題がある」と捉えてイライラすれば、母と接することで脅かされた自尊心に、分かりやすい理由を与えてやることができる。「は?ビビってねーし!この不快感は、問題のある母にイライラさせられているからだし!」と。

外に出たときの不安も、時としてイライラに変わる。例えば近所の人にたまたま遭遇してしまった時、「あ、どうしよう...」とうろたえた自分をごまかすかのように、「なんでこんな時間にうろうろしてんだよ!」と、すかさずイライラが湧いてくる。

結局、柄にもなく「こんにちは!」などと自分から声をかけてその場をやり過ごそうとするが、その返事が芳しくないこともある。

勝手に挨拶して勝手にいい返事を期待しただけなのに、「挨拶もまともにできないのかよ」とイライラしする。でもやっぱりそこには、「自分は良く思われてないのかも...」、「声が小さすぎて伝わらなかったのかも...」、「きもいと思われたかも...」といった不安がある。

不快感はなんのためにあるのか

誰かのせいにしたり、逆に自己卑下したり、言い訳するのは楽だ。都合の悪い現実を直視したり、どうすれば改善できるか考えずに済む。

言い訳しても解決しない

僕は子供のころ、勉強がとにかく嫌いだった。「勉強」や「宿題」、「提出物」という言葉自体に、不快感がまとわりついているとさえ感じる。

「親が頭ごなしに勉強しろと言ってくるから」、「勉強してなんになるの?」、「どうせ僕はバカだから」、「今勉強しようと思ったのに!」―。言い訳すれば、勉強しない自分を正当化できる。でも漠然とした不快感は、変わらず何度もやってくる。

不快感は言い訳するためにあるわけじゃない

僕は言い訳を繰り返すことで不快感と向き合うことから逃げ続け、そのまま大人になってしまった。せっかく不快感があったのに、現状を変えるべきだというサインがあったのに、それを活用することができなかった。勉強だけじゃなく、不快感だけじゃなく、それこそほとんど全てにおいて。

当時の自分にはそれが精いっぱいだった、仕方なかった思うが、だからと言って改善の余地がなくなるわけじゃない。

なんとなくある感情を言葉にできない

先日久しぶりに、妹が姪を連れて帰ってきた。2,3歳になった姪はすかっかり話せるようになりつつあって、自分の意見をはっきり言う。それは人と繰り返し接する中で、「なんとなくある感情」と「言葉」を結び付けられるようになったからだ。「ああ、この感じを~したいって言うのか」と。

僕はそういう、なんとなくある感情を言葉にすることが苦手だ。だから子供のころから将来の夢はなかったし、今だって自分で何がしたいのか分からない。だから「どうあるべきか」という、たぶん一生見つからない答えを求めてしまうんじゃないか。

それを誰かのせいにすることもできる。自己卑下することもできる。でもどんな言い訳をしたところで、現状が変わるわけじゃない。

感情の捉え方が上手い人

もう一人の妹とは、母親あるあるで話が盛り上がることがある。だから僕が日頃からイライラしている母の特徴について、妹が気づいてないわけじゃない。でも妹は母と友達のように話して笑っている。感情の捉え方が上手いんだな。

僕がよく見るYouTuberの中に、GatiImoさんというゲーム実況の人がいる。ゲームはほとんどやらないのに、なぜか見てしまう。

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この人、素人の僕が見ても明らかに上手い。でもその上手さを誇るわけでもなく、誇らないことを誇るわけでもなく、純粋にゲームを楽しんでいるように見える。上手くいかないことがあっても、理不尽なことがあっても、素直に悔しがったり、ツッコミを入れて笑いに変えたり、そんな状況さえも楽しんでいるように見える。

イライラする状況もコントなら、僕も笑えるんだけどなー。

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感情やその理由なんて、案外いい加減なのかもしれない。

感情の捉え方が上手い人たちは往々にして、思ったことをはっきり言う傾向がある気がする。でもコントのツッコミのように、嫌味がないし、楽しんでいる姿を見るとこっちまで楽しくなる。どこかサバサバしていているが、「ほら、あたしってサバサバしてる人じゃん?」みたいに拘るわけでもなく、ただただ朗らかと言うか何と言うか。

ゲームで練習してみよう

僕も思ったことを言葉にする練習してみよう。

ちょうど最近、「レッド・デッド・リデンプション」 というゲームを買った。

 

 

西部劇版「GTA」とも呼ばれるこのゲーム、西部劇に興味はないが、PVの雰囲気にやられてしまった。

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草むらでは虫が鳴き、砂埃が舞う荒野にゆっくりと日が沈んでいく。そんな中を馬で走っていると、少し泣きそうになる。

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きれいな景色を見れば、「うわ、これすごいな!」とか「ノスタルジックにもほどがあるだろ」とか、ミッションに失敗すれば「くそ―!」とか「さて、次はどう攻めようか」とか、普段ならなんとなく湧いてきては受け流すだけの感情を言葉に出している。

上手くいかない不快感を笑い飛ばしたり、あるいは「課題」として受け取れるようになれば、ゲームの仕様のせいにしたり、へたくそな自分を卑下する必要はないもんな。

放送大学の期末試験まで1週間を切っているこの時期にやることではないかもしれないと思いつつ、今日もまた、独り言をつぶやきながらゲームに勤しむ。