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人を人としてしか見られない

たまに外出すると、自分が自分じゃないように感じる。その理由が、今回の旅で分かった気がする。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

実際に人の中に行くと、人を人としてしか見られないんだよな。

細胞がどうのとか、脳がこうのとか、そういう次元じゃなく、「その人がその場にいる」ようにしか感じられない。

そこでは感覚が物を言う。何事も、それこそ歩く時の手の動かし方まで考えようとしてきた僕にとって、考えることが通用しないという事実は、怖くて仕方ない。

その一方で、この快適な部屋にこもる生活に戻ってみると、なにか寂しいような、虚しいような気がしてくるから不思議だ。

僕は、漠然とした不安から部屋にこもり、その中で考えようとしてきた。なにか、絶対的な答えが欲しかった。でも、分からないことだらけの世界で、そんなものは見つかるはずがない。それなら多少なりとも、根拠がないことを信じていくしかないじゃないか。

旅の中で、関わらずともいろいろな人を見て、みんな根拠がない肯定感を持っているように見えた。見るからに人生を楽しんでいる人だけじゃなく、さえないおっさんさえも。

なまじ根拠がない領域だから、いくら傍から見てみじめでも、「それは違う」と否定することはできない。

以前ソウルダストで見たように、あやふやだけど絶対的な肯定感が、やっぱり重要なんじゃないかと思う。そしてそれが僕にもないわけじゃない。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

だとすれば、あとは慣れの問題じゃないかな。

人間関係の悩みは、そのあとに出てくるものだと思う。僕の悩みは人間関係じゃなく、そもそも関係を持てずにいることだった。旅をしていても、自分だけ違う空間にいるような疎外感があった。店員との些細のやり取りでさえ、チャンネルがずれているような違和感があった。

考えることが通用しなかったからと言って、無意味とは思わない。むしろ、人の心に改めて興味を持った。もっと知るためには、やっぱり外に出ないと。

「もっと楽しんでいいんだ」と思えたのも収穫だった。僕が楽しんでいても、それをとやかく言う人はいなかった。それが不思議だった。楽しむことに罪悪感があったんだ。

外の世界を見れば、そこは娯楽にあふれている。それは、それだけ楽しみたい人がいるからだ。楽しむことが前提だからだ。理由がなくても楽しんでいいということだ。

とりあえず、もう一度旅をしようと思う。