ひきこもりから自立を目指す

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不安の板挟みから抜け出したい

今週は、放送大学の期末試験がある。昨日ようやく勉強にめどがついた。

僕には時間があるから、成績は良くて当然だと思っている。それでも良い成績を修めることによって、「自分は人よりも地頭が良いと思いたい」気持ちが強いことに気づいた。でも勉強を進めるほど、自分の凡人さを痛感する。

そもそも、地頭が良いと何が良いのか。そう考えてみると、他人から褒められるかもしれないこと、少なくとも自信にはなること、それくらいしか思い浮かばない。要するに自己肯定感が欲しい。でもこれは、「地頭が悪ければダメ人間」と言っていることになる。

そういう価値観もありかもしれない。でも他人と比べて得意なことに注目している限り、自分よりできる人に対して劣等感を覚えるだろうし、その能力を失う不安が常に付きまとう。

そうは言っても、世間一般の風潮として、何か高い能力を持っている人が称賛される傾向があるのは明らかだから、なんのとりえもない自分を肯定してもらうことは期待できそうにない。だとしたら自分で自分を肯定するしかない。

でもそれ以前に、どこまでが自分なのか。

身体の境界は分かりやすいが、脳を含めてほとんどが自動的に動いているし、ある意味では感覚や運動のための道具でもある。それこそこの前読んだ本のように、身体の境界を越えて、身の回りのものすべてを自分とみなす考え方もある。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

例えば有名人が亡くなると、多くの人がショックを受ける。それはその人の死を悼むというよりも、もはや自分の一部だった人を失うことで、自分の身体の一部を失うのと同じような喪失感を覚えるんじゃないか。

ときには自分を犠牲にしてまで人を助けようとする。それは自分以上にその人が、自分にとって大切な存在だからじゃないか。

今学期履修した「比較行動学」で 、ヒト以外の霊長類の中で鏡に映った自分を認識できるのは、チンパンジーなど一部の類人猿しかいないこと、そしてチンパンジーをはじめ一部の霊長類は、自分にまったく利益が無くても他の個体を助けることを知った。類人猿は霊長類に含まれるから、「自分」という感覚は他者ありきだと、捉えられなくもない。

こうして考えていくと、他人への称賛は、自己愛の延長のようにも見えてくる。そうはいっても、やっぱり褒められたらうれしい。

褒められても不安、褒められなくても不安。この板挟みから抜け出す方法を知りたい。