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久しぶりにサポートステーションに行ってきた

今年はいつにも増して季節感のない年だった。でもいよいよ年末ということでサポートステーションでイベントがあって、今年の夏以来、4か月ぶりに行ってきた。まあそんな調子だから親しい人などいるはずもなく、今日もいつも通り、ほとんど話すことなく過ごした。

お互いに親しい人が多かったらしく、かといって新参者を拒むこともなく、和気あいあいとした雰囲気だった。他愛無いやりとりから幾度となく笑い声が起こり、僕も無意識のうちに周りに合わせてぎこちない笑顔を浮かべていたが、「これは面白いことなのか?」とずっと思っていた。発言する人は本当に面白いと思って言っているのか、笑っている人は本当に面白いと思っているのか、無理しているのは僕だけなのかと。

普段ずっと一人でいると、バライティ番組やコントなど、よく練られたネタでしか笑うことがない。だから「完成度=面白さ」になってしまう。それよりもああいう場では、その人との関係とか場の雰囲気が重要なんじゃないか。そういえば僕だって過去に思い当たるふしはあるし、今でも妹たちとはそういう感じになることがある。気心の知れた仲間といるときは、その人となんとなくやり取りするだけで楽しい気分になる。内容なんてどうだっていい。それは、時には「いじめ」さえも楽しいと思えてしまうほど強力だ。

最近、意識について書かれた「ソウルダスト」という本を読んでいる。その本によれば、意識は世界を「気持ちのいい世界」だと感じるようにできていて、それによって生きる喜びを見出すことが、意識の意義の一つだと書かれている。美しい景色は景色が美しいんじゃない。本来何の価値もないものに、自分自身が肯定的な感情を振りまいているんだと。

たしかに、何の変哲もないはずなのに、なぜか幸せだと感じる匂いや音、その場の雰囲気がある。「単純接触効果」という言葉もあるし、自分が一番身近な存在という意味では「ポジティブ・イリュージョン」も含めていいかもしれない。とにかく人には、身の回りの対象を肯定的に受け取る傾向があるようだ。

僕の身の回りと言ったら、もっぱら自室の中に限られる。それだからだろうか、自室から一歩出るだけで振る舞いが変わり、さらに玄関を出れば、もはや別人のようにフワフワしてしまう。普段考えていることなど吹き飛んで、とにかくその場をやり過ごすために、自分の中では無難な、いつも通りの行動を繰り返す機械と化す。自分が自分じゃないようで、自分が周囲に溶けて無くなるようで、いつも後味の悪さが残る。今回も例外ではなかった。

まあ、意識するだけですべて思い通りにいくとは思っていない。本当に変わりたければひたすら場数を踏んで、体に覚えこませるしかないだろう。そこまでしてやりたいと思えるか。一人が何より快適だと思う反面、仲間と悩みを相談し合ったり、今回のように和気あいあいとできるならしたいという気持ちも相当にある。

楽しいまま死んでいけるならそれが一番だと思うが一方で、なにかごまかしている感じがして、それこそ生まれてから死ぬまでの、自分ではどうすることもできない流れに飲まれる感じがして、それならむしろ、みじめなまま死んでいく方が、カッコいいとも思う。でもやっぱり楽しい方がいいに決まっている。でもわからない。たぶん一生分からない。というより分からないと言うことが目的になっている気もする。ただの趣味なのかもしれない。

 

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想