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【回想】小学3年生(随時更新)

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代役の先生

小学3年生になると、初めてのクラス替えがあった。妙にそわそわしつつも楽しい気分で、廊下を全力疾走したことを覚えている。担任の先生は産休中で、1学期は代役の男の先生だった。絵がうまい先生で、黒板によく描いて見せてくれた。「絵に失敗はない」と口癖のように言っていて、図工の時間は消しゴムを使わずに描くことになっていた。僕もこの先生に影響されて、巨大なイモムシの登場する訳の分からない絵を描いた。

1学期は先生の好みで「この木なんの木(日立の木)」をよく歌っていた。 


日立の樹 この木なんの木 歌詞付き

1学期末に先生のお別れ会をやったとき、僕と同じあだ名だった友達が、涙をあくびでごまかしていて「こいつw」と思った。その友達の親は的屋だった。話を聞くと、それとは別に希少動物の売買やっていたようで少し危ない香りもしたが、良い奴だった。でもその友達が家に来るのを、家の母親はあまりよく思っていないようだった。 だった

音楽の時間

3年生から音楽の時間に専門の先生に教わるようになった。はじめに「ハッピーチルドレン」という歌を歌うことになって、その意気込みを書いて提出することになった。

周りの友達が無邪気な思いを書いていく中、僕は目上の人にタメ口を使うことができないし、厳しそうな先生に圧倒されていたので、かなり無理して「元気よく歌うぞ!」的なことを書いた覚えがある。

リコーダーが始まって家で練習することもあったが、はじめのうちは「ド」の音が出せる気がしなかった。

 

 

 

 

このころから歌を歌うときに低音パートと高音パートに分かれることが出てきて、合唱の楽しさを知った。

担任が復帰

2学期から担任の先生が復帰した。この先生は優しくて、ようやく安心感のある先生に巡り合った印象がある。そのせいか具体的なエピソードをあまり覚えていない。でも1学期の先生とは違って絵に関しては真面目で、僕が木にぶら下がっている人を描いたとき、その手の部分について現実的な指摘をされたことを覚えている。あとは、この先生が好きだった詩集を、僕もこの後数年かけてそろえた。たしか俵万智だっと思ったが違いった。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

たしか俵万智のこの詩が国語の教科書に出てきて、俵万智と担任の先生の顔が似ていたからごっちゃになっていた。当時は詩を味わうことがかっこいいと思っていただけで、同じ時期に買ったダジャレ集の方がはるかに面白かった。「病院に行ったんだって?」「うん、こくさい病院」「で、どうだった?」「うん、ちだらけの人がいたよ」みたいなくだらないダジャレが延々書かれていたが、当時はこんなに面白いことがあるのかと感動した覚えがある。

国語の授業で「3年とうげ」の劇をやることになって、それを授業参観の日に披露することになった。僕はでんぐり返しをする役だったが、失敗して頭を打ってしまい父兄の方々から笑い声を頂戴した。そのアクシデントがうれしくて、帰り際、当時可愛くて気になっていた女子の近くで、友達に向かってその話をすることで、なんだかよくわからないアピールをした覚えがある。

生き物

1学期の先生は教室で亀を飼っていた。たしかイシガメだったと思う。その年に、僕も田んぼの用水路でクサガメを見つけて飼い始めた。以来、何匹か亀を飼ってきて死んでしまったものもいたが、その時の亀の子供と、大きくなったミドリガメが2匹、今も祖母の家の庭にいる。

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この年は教室でもいろいろな生き物を飼った。あるとき「モンシロチョウの幼虫を育てよう」ということになって、クラスの何人かが飼い始めた。そこで僕も母と一緒に近所の畑に行って、キャベツについている幼虫をもらった。でもそれはガの幼虫だった。目が肥えていた僕は一発でそれが分かったが、「違う」と言う勇気が出ず、結局それを学校に持って行った。そうして僕だけガになる予定の幼虫を育てていたが、連休中にキャベツと一緒に溶けてしまって、ばれることはなかった。

水泳

小学校には小プールと大プールがあって、この年から水深の深い大プールで泳ぐことになった。幼稚園のときだったか、知り合いに勧められて水泳教室の体験をしたことがある。そこではゴーグルを付けずに水中にあるカードを読む課題があって、僕はすぐに行かなくなった。それもあって泳げなかった僕は、改めて別の水泳教室に通い始めた。いつものように上の妹も一緒に通い始めた。でもこの歳から通い始める子供はなかなかいない。初級コースで僕が一番大きかった。幼稚園くらいの子供に混ざって壁際でバタ足していた。

母の手術

この年の夏休み、母が若いころに負傷した箇所の再手術をすることになった。しばらく入院するので僕ら兄妹は、その前の年に近くに引っ越してきた父方の祖父母の家に預けられた。

あるとき僕は祖父に連れられて電車に乗って、遠くの小学校のイベントに連れて行ってもらったことがある。そのとき僕はなぜか「祖父に殺されるのではないか」と思った。祖父は祖父母クラスの人としては比較的厳しく、「数字の0と6が分かりづらくならないように丁寧に書きなさい」とか、「靴は必ずそろえなさい」と言ってくることがあった。あとは見た目が橋本龍太郎と似ていて威圧感もあった。それが知らない土地に行く不安と結びついたからだと思う。肝心のイベントは、地元の子供が多くアウェー感が強かったが、僕はそこで「アフリカツメガエル」のおたまじゃくしと、葉っぱから芽が出てくる植物(今調べたら「セイロンベンケイソウ」というらしい)をもらって大満足だった。

自由研究

3年生から夏休みの課題として、読書感想文か、感想画か、自由研究をやることになっていた。僕は初めての自由研究で、近所に生息する虫を調べて地図に記入した。このあと6年生まで自由研究を選択し続けたが結果は芳しくなく、せいぜい「佳作」だった。

流行りについていけなくなる

このころになると同じ公営住宅の友達とはあまり遊ばなくなり、比較的家が近いクラスメートと遊ぶことが多かった。このころはとにかく楽しかったが、すでに人と違うことを気にし始めていたようにも思う。2年生のころに特別に買ってもらったゲームボーイしかゲーム機を持っていなかったので、友達の家へ行っては遊んでいたが、経験不足でへたくそだったし、FPSのように動きの激しいゲームは酔ってしまうので、眺めていることが多かった。眺めているうちに酔って一足先に帰宅したこともある。公営住宅内ではビーダマンやミニ四駆が流行っていたが、それもやっぱり見ているだけだった。

月に300円のお小遣いで流行りについていけるわけがない。親に欲しいと言えばダメだと言われるばかりか不機嫌になり、「そんなこといいから勉強しなさい」などといらない小言まで言われる。それでも両親が揺らぐこともあった。母は「お父さんがいいって言ったらいいよ」と言い、父は「お母さんがいいって言ったらいいよ」という。お互い責任逃れに牽制し合ったあと、いつもきまって「ダメ」だという結論になる。ぬか喜びもいいところだ。「学習性無力感」というか、僕がわがままを言わず「聞き分けのいい子」になるにつれて、ことあるごとにうるさく言われる「勉強」からも離れていった。

またポケモン

この年の冬に「ポケモン金銀」が発売された。

 

ポケットモンスター  金

ポケットモンスター 金

 

 

発売前の時期、僕はなけなしのお小遣いを使って「コロコロコミック」を買って、情報収集に努めた。新しい主人公や、「ホウオウ」、「デンリュウ」、「ヤドキング」といった新モンスターにワクワクしていた。たしか新モンスターのポケモンシールがついてきたこともあった。でも金銀バージョンを遊ぶにはゲームボーイカラーが必要で、すでにあきらめることを覚えていた僕は、まあ実際に遊ぶことは無理だろうと思っていた。

僕がよくからかっていた友達Aは一人っ子だったこともあり、両親の愛情を存分に受けていた。ゲームもたくさん持っていたが、ポケモン金銀はしばらく持っていなかったので、僕は安心した覚えがある。周りの友達がどんどん手に入れる中、Aはその状況を嘆くどころか「ポケモン買ってもらった。(絶妙な間) 夢を見た。」という面白い言い方をしていて、僕はとても感心した覚えがある。それが気に入った僕もまねして、まるで僕が考えたかのようにあちこちで使っていたが、間もなくAも買ってもらって僕だけになってしまってからは、いよいよ虚しくなってやめた。

学級委員

勉強は嫌いだったがテストの点数は良かった。周囲から「天才」などと呼ばれて調子に乗ていた。今思えば4月生まれだったところが大きいと思う。同時に「しっかり者」のイメージも定着しつつあったので、積極性もあった僕は、この年から5年生まで毎年学級委員を務めた。

弱い者には強く

仲のいい友達の中に、優しくて怒らない友達Aがいた。僕は他の友達Bと、Aの替え歌を作ったりしてよくからかっていた。泣かしてしまったこともある。弱い者には強く出る悪い面が相変わらずあるどころか、これからますます強くなっていく。替え歌を作るといっても、作るのほとんどいつもBで、僕はそれに便乗していい気になっていただけだ。僕の家はテレビに厳しかったから、そもそも元歌を知らない。Bは自在にげっぷを出したり唇を裏返したり、なかなか芸達者だった。Bの妹のことをちょっとかわいいなと思っていた。

ある日Bと僕で、「Aの家を隠れて観察しよう」ということになった。「○○(Aのあだ名)警備隊」と称して双眼鏡を持って出かけた。Aの家の前の駐車場から観察していたら、Aの母親に見つかって叱られた。叱られたのは後にも先にもこの時だけだったが、すごい剣幕だった。一通り叱り終えたあとAの母親は「人生にはこういう日もあ↓る↑」といって許してくれたが、少し大げさすぎる気もした。そのままAの家で遊ぶ流れになったが、すでに友達Cも遊びに来ていた。Cも普段は一緒になってAをからかうこともある癖に、「一切関係ありません」みたいな顔に見えてモヤモヤした。Aの母親が僕の母に電話で告げ口したらどうしようかと心配していたがその様子もなく、Aの母親は優しいなと思った。

強いものには弱く

弱いものに強く出る一方、対等以上の者には強く意見できない。それが災いしてやられることもあった。この年の2学期に来た転校生にくすぐられて、なかなか止めてくれないので泣いた。下校中、蚊柱が僕の頭の上をついてきて、それを友達二人にからかわれて腹が立ったが直接怒ることができず、走って帰った。

転校生は僕のことをことあるごとにからかってきた。僕は髪が短かったので、「ハゲ」をネタに替え歌も作られた。それがまた面白くて悔しかった。僕が友達Aにしたことと同じことをされたのに、それを省みることができず、転校生に「ちょっと嫌なやつ」というレッテルを張るだけで終わってしまった。

でもその転校生とは家で遊ぶくらいには仲が良かった。この転校生だけでなく、徐々に家の遠い友達とも遊ぶようになった。確かこの年、新しくマウンテンバイク風の自転車を買ってもらってそれで出かけていた。一度歩道の段差で転んで、その前にある会社のおじさんたちに心配された覚えがある。

おねしょ

通学路には毎朝、信号が青になる度にホイッスルを吹いてくれるおじいさんがいた。ある日僕は、そのすぐ近くのフェンスに向かって放尿した、夢を見た。起きたら漏らしていた。物心ついてから最初で最後のおねしょだった。

マラソン大会

毎年冬になるとマラソン大会がある。4月生まれということもあって、このころの僕は速い方だった。1年生のときはなんだかよくわからないまま終わった。2年生のときはスタートで転んでしまって、大きく順位を落とした。3年生にもなるといよいよ年末の恒例行事になってきて、この年は同じクラスの友達と接戦の末に競り勝って大きく順位を上げることができた。劇的なことに思えて、その年の文集にはそのことを書いた。作文はかぎかっこから始まるとカッコいいという風潮があった。

お祭り

この年から毎年春になると、母のボランティア活動の関係でお祭りに連れていかれた。障害児のための団体で、毎回お絵かきせんべいの店を出していた。のちに母が「そういうところで活動する姿を見てなにか感じてほしかった」的なことを言っていたから、たぶん「障害者」と言われる人たちに対して理解を深めさせたかったんだろう。それはある意味、効果てきめんだった。

母が活動していた団体のメンバーは、障害児の親がほとんどで、とくに知的障害が多かった。リーダー格のHさんの子供もそうで、目が合うと暴力を振るってきた。相手は女子だったが僕より年上で体も大きく、腕をぐるぐる回しながら迫ってくると、蛇ににらまれた蛙のように動けなくなってしまう。その母親であるHさんはそのことを見て見ぬふりしているようで、不信感を覚えた。

みんなでお弁当を持ち寄って昼ごはんを食べることになった。僕の母が赤飯を出したとき、Hさんは笑いながら「いやらしい~」と言った。母が「え、何で何で?」とキョドると、Hさんも赤飯を出して母は申し訳なさそうにしていた。その嫌味な言い方と母のキョドり具合から、普段の関係がよくわかった気がした。Hさんのことをますます嫌いになった。健常者の子どもしかいない母に対する嫉妬だと思った。「そんなんだから障害児が生まれるんだよ」とさえ思った。その数年後、Hさんの夫が亡くなったと聞いて「ざま見ろ」と思った。

そういう嫌な部分もあるのに、というかあって当然なのに、表面上は「みんな仲良く、いつもニコニコ」みたいに振る舞っているのが気持ち悪い。団体や施設の名前が決まってひらがなで書かれているのも、そういう部分の裏返しじゃないかと、いまだに嫌悪感を覚える。一度母が「自分の子供が障害児でもよかったと思う」と言ってきたことがあった。僕は反応に困ってしまったが、そういう態度こそ差別じゃないかと思う。

そんな母に向かって「お祭りに行きたくない」というと怒られそうな気がして、僕は次の年も行った。またHさんの子供がいた。僕の方をみてニヤニヤ笑っている。次の年も行った。やっぱりHさんの子供がいた。毎年その時期が憂鬱だった。その翌年にようやく、波風立てずにお留守番することに成功して、それ以来行っていない。