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【回想】小学2年生(随時更新)

hiki-jiritsu.hatenablog.com

情熱的な担任

小学二年生というとまず、情熱的な女の担任を思い出す。帰りの替えに先生が来なかったとき、「このまま帰ろう」ということになって教室を出始めたころに先生がやってきて、机を蹴り飛ばしながら怒られたのが衝撃的だった。イベントの企画が好きで、ことあるごとに「~パーティー」が多かった。先生は僕によく娘の話をしてきて、「もしかしたら結婚させられるんじゃないか」という不安を覚えた。

客観的に見られるようになる

1年生のころと同じく授業の記憶はほとんどないが、図工の時間に鉢植えのヒヤシンスの絵を描いたとき、初めて写実的(客観的)に描いたことを覚えている。この時期に人に危害を加えるような問題行動も目立たなくなるので、物事を自分以外の立場から見られるようになる、いわゆる「脱中心化」の時期だったんだろう。

6年生が怖い

2年生のときのペアは5年生で、他の学年のペア同士が集まって遊ぶ時間が毎週あった。そのとき僕のグループの6年生が、僕と目が合うたびになにか嫌なことを言ってきた。具体的に何を言われたのか覚えていないが、でかい図体と不気味な笑顔が怖くて、いつも避けていた。一度もろに目が合ったときは、足がすくんで動けなくなった。

クラスメート

クラス替えがなかったのでメンバーは代り映えはしなかった。クラスメートが髄膜炎にかかってしばらく入院して、そこで背中に刺された注射がとにかく痛かったと言っていたことが印象に残っている。僕はそのころ、トイレのドアを閉めずにフンをする癖があった。学校でもそれが出てしまい、運悪く(男子トイレなのに)クラスの女子に見られてしまった。その女子は全校生徒の前で「最近あった面白いこと」を発表することになっていて、その発表までのあいだ、ことあるごとに「トイレの話にしようかなー」と言ってきて、僕は本気で心配していた。

はじめての親友

この年はじめて親友ができて、家が近かったこともあってよく一緒にいた。お互い親友だと思っていたが、後から母に聞いた話によると、最初はその親友の母親に頼まれて遊ぶ機会を増やしたらしい。その母親は教育熱心で、親友には家庭教師がついていた。「他の人には言わないでね」とさんざん念を押されたことを覚えている。

このころようやく、自分の勉強机を買ってもらった。上の妹の入学に合わせたのかもしれないが、はじめてお小遣いをもらったことから始まり、僕の方が年上なのにいつも妹と一緒で不満だった。当時はまだ土曜日も半日学校があって、その日に机が来ることを親友に言ったら、「まだなかったんだ」的なことを言われて傷ついた。

教会

親友の家の近くに、むかし幼稚園もやっていた教会があって、その名残でクリスチャン以外の子どもも遊びに行けるようになっていた。僕の下の妹も幼稚園に入る前はそこに通っていて、つたない口調で「かみさーまーよいこーにしてくーださい」と歌っていたのを覚えている。

1年生のころ頭に怪我をした近所の友達の家はクリスチャンで、少し遠い教会に礼拝に行っている話をよくしていた。それだからか兄弟が多く、僕の上の妹にも同級生がいて割と仲が良かった。その友達の母親が、「5人も生んだからブヨブヨになっちゃった」と言いながら、だらしない腹を見せてきたことがある。

隣の上級生

このころはまだ学校の友達よりも同じ公営住宅の中で遊ぶことが多く、特に隣に住んでいる一つ上の上級生と遊ぶことが多かった。その上級生の妹と僕の上の妹が同級生だったので、よくお互いの家を行き来していた。何か用があるときはベランダに出て「○○くーん!」と呼んで、呼ばれた方は「はーい」と言いながら出ていくことになっていた。その上級生はすぐに泣いてしまうので、かなり気を使った覚えがある。

その母親はカエルが苦手だとは聞いていた。でもあるとき母方の祖父母の畑でトノサマガエルを捕まえてうれしかった僕は、わざわざ手にもって見せに行った。そしたら本気で苦手だったようで、絶叫された。

その上級生が、「家はそろそろ車を買い替えそうだ」と僕に言ってきた。検討中の車は6人乗りだという。当時僕の家の車はオーソドックスな5人乗りだったので、3列目に一つだけシートがある変な車を想像していた。

飲み薬と目薬が苦手

その妹が家に遊びに来た時、上の妹と母に何か耳打ちして、僕だけのけ者にされたことがある。そのときの気分は良くなかった。その後、僕が飲み薬のカプセルを呑み込めず、何度もトライしているうちに溶けてしまって泣いたとき、あのとき実は、僕のことを「カッコいいから好き」と言っていたと母が教えてくれてとてもうれしかった。でもカプセルはどうしてもだめで、かなり大きくなるまでまともに飲めた試しがない。あとは目薬もダメでいまだに差せない。結膜炎かなにかにかかった時は、毎回逃げるのに母につかまって、強制的に差されていた。

とにかくポケモン

僕の周りはポケモン全盛期で、みんな初代ポケモンを持っていた。僕は買ってもらえなかったので、例の親友に借りたりして遊んだことがある。母親にとってはそれが人様に迷惑をかけているようで嫌だったらしく、ついに買ってもらえることになった。次の休日までとても待ち遠しく、もしかしたら父が仕事帰りに買って来やしないかと、毎日期待しながら待っていた覚えがある。でも1日「30分」などという約束が守れるはずもなく、よく取り上げられていた。

 

ポケットモンスター  緑

ポケットモンスター 緑

 

 

ポケモンのシール集めにもはまっていた。駄菓子屋には2枚入りのパックも売っていて、たしか数十円だったので、毎月200円しかもらっていなかった僕でもいくつか買えた。その年のクリスマスプレゼントにポケモンシールを頼んだら、パックの箱ごともらってうれしかった半面、1世代前のシールでがっかりした覚えがある。

同じ公営住宅に、レベル100のミュウのシールを持っている下級生がいた。僕なりに、なけなしのレアシールをかき集めて、それと交換してもらったことがある。それよりも前、その下級生に可動式のロックマンの人形を、僕のウルトラマンの人形数体と交換してもらったことがあった。その時はあとから親と一緒に家に来て、「やっぱり返してほしい」と言いに来た。だから今回も来るのではないかとそわそわしていた。結局来なかったが、年上を良いことに半ば強奪したのかもしれない。

このころはとにかく「ミュウ」が好きで、いつもミュウがいる生活を妄想していた。そのうち実在しそうな気がしてきて、サンタさんに頼みかけたことを覚えている。 この年の夏休みに、ミュウも登場する映画「ミュウツーの逆襲」を父と見に行った。


【ポケモン】風といっしょに【ミュウツーの逆襲】

夏休みは子供会の活動として毎朝ラジオ体操に通っていて、そこで映画の話を友達にしたことを母に言ったら、「行きたくてもいけない人もいるからそういう話題はダメ」だと言われた。

セミの幼虫

毎年セミの季節になると、夜、妹と母と一緒に公園へ行って蝉の幼虫を捕まえた。それを持って帰ってカーテンにつかまらせておくと、そのうち羽化が始まる。いつも途中で寝てしまうが、翌朝には乾いて、もうすっかりセミになっている。中には途中で羽化に失敗してそのまま乾いてしまうセミもいて、僕はそれを殺すこともできず、悩んだ末にベランダから投げてなかったことにした。

鳥の巣

公営住宅の階段の踊り場に、毎年ツバメが巣を作った。ときどき落ちてしまうヒナがいて、戻してもまた落ちてしまう。ある日通りかかったら誰かに踏まれて干からびていてショックを受けた覚えがある。そこには夕方になるとコウモリも来た。そのフンとひじきが似ているといまだに思う。

普段の学校が休みの日は、なぜか早起きすることが多かった。上の妹も同じで、他の家族が起きるまでのあいだ、「鳥の巣ごっこ」をして遊んだ。たぶんツバメの巣にインスパイアされたんだろう。布団で巣を作って、その中で羽ばたいたり羽を休めたりしていた。休日の高揚感もあってとても楽しかった。

近所からの苦情

上の妹ととはよくケンカもした。騒ぎが大きくなって、同じ公営住宅の年配の家から苦情が来ることが何度かあった。そのたびに母が「家に火を付けられるかもしれない」とシクシク泣いて、とても怖かったのを覚えている。

テレビ

このころは雨が降ると、家でビデオを見ることが多かった。マザーグースの英語のビデオの中に「スカボロフェアー」という歌があって、しとしと降る雨の雰囲気とマッチしていて好きだった。


Scarborough Fair Simon and Garfunkel スカボロフェア サイモン&ガーファンクル

テレビに厳しかった親も、ポケモンはなぜか見させてくれた。珍しく親が主題歌のCDを買ってきて、友達に貸したことを覚えている。

 

めざせポケモンマスター/ひゃくごじゅういち

めざせポケモンマスター/ひゃくごじゅういち

 

 

ポケモン言えるかな?」を早く歌えるようになりたいと、何度も聞いていた。


ポケモン言えるかな? 初代

おせっかい

ポケモンシールを買っていた駄菓子屋には、頻繁に通っていた。あるとき知らない上級生が何かお菓子を探していて、それらしきものを見つけた僕は、勇気を出して「これですか」と声をかけた。そしたら「うるせーガキは黙ってろ!」と怒鳴られて激しく後悔した。母に似たのか、こういうおせっかいなところがあった。それから年上の人にため口を使えなかった。

タメ口

父の仕事つながりで、一度だけテレビに出たことがある。父子で一緒になって田んぼで楽しく遊ぼう!みたいな企画で、10組くらいの親子がいたと思う。でも僕はなじむことができず、田んぼで泥だらけになっている集団を尻目に一人でうろついていた。そしたらヒキガエルを見つけて、そのあと様子を見に来た大人に「ヒキガエルがいた」と精いっぱい子供らしく話した覚えがある。後にも先にも、年上にタメ口を使えたのはこれきりだった。

祖父母の引っ越し

この年、父方の祖父母が隣の市に引っ越してきて、毎週のように遊びに行くようになった。はじめのころは、庭で野菜を育てるために、土と砂利を分ける作業を延々とやっていた。

カメラ

引っ越し後の荷物を整理していたら、父が使っていたフィルムの一眼レフが出てきた。僕はそれを借りてフィルム一本取ってみたが、ほとんどピンボケだった。たしかファインダーの中に上下に分かれた円があって、それがぴったり合ったところでピントが合うと教わった通りにしたのだけど。それから同じ時期に100均でカメラを見つけて感動した。それで撮ってみても、やっぱりピンボケ写真を量産した。

父は写真が好きで、スライドの映写機を持っていた。僕はスライドのケースを、捕まえた虫や魚の一時的な容器として使っていた。

カマキリ

このころは虫好きが全盛期を迎えていて、夜にセミの幼虫を取りに行くほかにも、山にカブトムシを取りに行ったり、公園にカマキリを取りに行ったり、いろいろな虫がいつも家にいた。カマキリが多くいる公園を「カマキリ公園」と呼んでいて、毎年秋になると大きくなったカマキリや生みたての卵を探しに、母と電車で通った。飼っていたカマキリが交尾をしたあと、メスがオスの頭を食べたことがある。オスはそのまましばらく生きていて(?)、普通に立っていたし、触れば動いた。オオカマキリの卵はキ〇タマ袋とよく似ている。翌年のゴールデンウィークあたりに孵化して小さなカマキリが一斉に出てくる様に、当時はロマンを感じていた。