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【回想】誕生~幼稚園年長(随時更新)

hiki-jiritsu.hatenablog.com

両親について

父親

会社員の家庭に生まれる。妹が一人いる。子どものころから衝動的な一面があり、友達はほとんどいなかった。その後、某一流大学に入学するも卒業が危ぶまれる。なんとか卒業し地方公務員に。

母親

教員との兼業農家に生まれる。優秀な兄と常に比較されて育つ。高校時代に父(祖父)の運転する車で事故に会い大けが。医療関係の大学を出たあとその流れで就職。同時期に最愛の人を病気で亡くす。

出会い

父の親戚が仲人になって見合い婚。父は母の6歳年上。父の母(祖母)は安堵のあまりに号泣したらしい(察し)。

誕生~幼稚園入園

誕生

両親の結婚からほぼ1年後に第一子の僕が生まれる。逆子だった。それから頭が大きく、水頭症を疑われるほどだったという。癇癪もちでとにかくよく泣いたらしいが、健康面ではとくに何事もなく育った。

よく泣いた

もうすぐ2歳になるころ、一人目の妹が生まれる。幼いころはいつも僕の後をついて歩いていたらしい。当時住んでいた公営住宅には同じくらいの年齢の子供が何人かいて、僕も遊ぶことが多かった。でもいつも泣かされていたらしい。今では信じられないが父のことが大好きで、仕事に出かけるたびに泣いていたという。とにかくよく泣いていたが次第に治まり、それと入れ替わるように、手のかからなかった妹がよく泣くようになっていく。

引っ越し

3歳ころに県庁所在地に引っ越した。県の職員はある年齢になると県庁に集まるらしく、同じ公営住宅の友達も市内に続々と引っ越してきた。当時の僕は引っ越した当日から外に遊びに行くような積極性があったらしい。

最早期記憶

僕の一番古い記憶はこの前後のものだ。防災訓練のときに見た炎、近くの公園の木馬、巨大な蔓科の植物が「はらぺこあおむし」に見えたこと。引っ越し当日、見送ってくれたうちの一人が犬のフンの上に座ったこと。幼稚園を探しに車で出かけたこと。

 

はらぺこあおむし エリック=カール作

はらぺこあおむし エリック=カール作

 

 

幼稚園年中

僕は二年保育だったので、年中から幼稚園に通いだした。記憶違いでなければこの年に、「尊師マーチ」の替え歌が流行っていた。阪神淡路大震災もこの年か。

もろもろ

教室の前にはプラスチック製の遊具があったが、一度静電気が発生して怖くなったので、それ以来その遊具には触れていない。遠足で動物園に行ったからか、「動物園へ行こう」を聞くといまだに楽しい気分になる。


動物園へ行こう  ~おかあさんといっしょ~

そこで見つけたカマキリを年長のやつに横取りされたことを覚えている。だいぶ大きくなるまで虫が大好きだった。

初恋?

この年、なぜかは分からないがクラスで一番かわいい女子が僕のことを好いてくれていた。走って逃げても付いてくる。それがうれしくて何度も逃げていたら、別のクラスメートが「止めろよ!」といってその子を注意して付いてこなくなってしまった。余計なことしやがって。この時期の楽しい思い出は地味に心の支えになっている。両思いだったのはこれが最初で最後だから・・・

幼稚園年長

失恋?

年長に上がると、その子とは別のクラスになってしまった。そしたら急に冷たくなって、僕の名前をもじってからかってくるようになった。今思えばツンデレだったのかもしれないが、当時の僕は悲しくて疎遠になってしまった。もうひとつ、クラスでどこかに出かけたときは男女で手を繋いで歩くことになっていたが、僕のペアはいつも手をつないでくれなくて気まずかった。

異性つながりで言えば、美人な先生のことも覚えている。近所の友達がその先生のクラスにいて、あるときその友達の欠席届を預かったのにすっかり忘れてしまった。翌日勇気を出して先生に謝りに行ったら笑って許してくれた。

流行り

この年にポケモンが流行りだした。個人的には迷路を描くのにはまっていた。

あとは芳香剤の香りがするビーズを誰かが持ってきて、それがことあるごとに取引されていた。当たり前のように「におい玉」と呼んでいたが、検索しても「臭い玉」しか出てこない。入手したにおい玉は名札の中に入れて、その数がステータスのようになっていた。当時「肝油ドロップ」をたしか幼稚園を介して定期的に買っていて、その中に入っている乾燥材がにおい玉とそっくりで、「大量に手に入る」とワクワクしながら開けたら、においがしなくてがっかりした記憶がある。

 

【指定第2類医薬品】カワイ肝油ドロップS 300粒

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テレビ番組

僕の家はテレビに厳しかったがNHK教育だけでなく戦隊ものやウルトラマンもわりと見ていた。「メタルヒーローシリーズ」の乗り物のおもちゃを持っていたが、変形ギミックが機能しなくて不満だった。ウルトラマンは過去の録画で、初代ウルトラマンウルトラマンタロウを何度も見ていた。小学生になってからも見ていたと思う。


初代ウルトラマンop


ウルトラマンタロウ OP

あとは幼稚園に行く前に「ポンキッキーズ」も見ていた。


歩いて帰ろう


さあ冒険だ【ポンキッキーズ】

忍たま乱太郎のエンディングをよく歌っていた。


四方八方肘鉄砲 / 舩木真弓

絵と字が得意

父の日の贈り物として絵を描いたマグカップを幼稚園で作って、それは翌年の妹の分と二つ、いまだに家にあって使っている。父とキャッチボールしている様子と新幹線の絵が描いてある。電車と車が好きだった。同じ年にライオンの絵を描いたら何かの賞をもらった。習字教室に通い始めたこともあり、絵と習字が得意だった。

バスの思い出

幼稚園にはバスで通園していた。いつも隣に座る友達とは、ズボンのポケットの数を競っていたことを覚えている。この友達は、僕の知らないことをいろいろ教えてくれた。唯一覚えているのが「小数」について教えてくれたこと。「小数があるなら大数もあるの?」などと精いっぱい分かったような質問をしたら、答えてくれたが分かるわけもない。今思えば「対数」について言っていたんじゃないかと思う。それくらいヤバい奴だった。案の定、小学校受験して疎遠になった。

バスと言えば、「バスごっこ」。遠足のたびに歌っていたせいか、これもまた思い入れがある。先日1歳半の姪と一緒に歌って世代が変わったことを実感した。


【公式てあそび】バスごっこ

一度40.0℃の高熱を出したことがあった。そんな状態なのになぜか、みんなと一緒の時間にバスで帰ることになった。体調は最悪で、帰りのバスの中でフンをもらして泣いた。

帰りのバスの時間までは「日本昔ばなし」のビデオを見て過ごすことが多かった。そんな平和な時間に、学年一の乱暴者が同級生の目を殴って流血させた事件が忘れられない。涙がオシロイバナで作った色水のように赤かった。被害者は学年一、名前が長いと話題になっていた子だった。僕もバスの座席を取り合って、その乱暴者に殴られたことがある。人に殴られたことがなかったので、とにかく痛かったのを覚えている。


にんげんっていいな

託児所

このころ母は仕事をしていなかったが、たまに研修か何かで託児所に預けられることがあった。ある日そこで居合わせた同世代の子どもに顔をやられて、その傷はいまだに残っている。

イベント

この年の「お遊戯会」で、僕のクラスは「ピーターパン」を演じた。僕の役はピーターパン。もちろん一人ではないが、主役になれるポジションにいた。その様子はまとめてビデオに収められて、あとで親に配られる。僕は自分を見られるのが嫌で、親が見るそぶりを見せるたびに怒っていた。

その後「お泊り保育」と称して幼稚園に泊まる日があった。布団は二人で1枚。そのためのペアを決めなければならない。いざペアを作り始めると、僕が仲のいいと思っていた友達(お遊戯会で主役を務めた友達)が、次々にペアを作っていく。焦った僕は余る前に手を打とうと、クラスで人気のない友達をあえて指名して事なきを得た。「○○(その友達の名前)でいいや」という言い方をした思う。このころから、このような意地の悪い行動が出始める。ちなみにこの友達には、その翌年さらにひどいことをする。

意地の悪さ

この年、僕と妹は初めてのお小遣いをもらい、自分でものを買えるようになった。僕は将棋セットを、妹はミニチュアの人形セットを買った。

 

 

将棋セットの方が高かったので、残金は僕の方が少ない。それが気に入らなくて、妹の財布を箪笥の裏に隠した。思ったよりも大事になってしまったので焦った僕は、「なんだあるじゃん」的なことを言ってわざとらしく見つけ出した。

この年に下の妹が生まれた。朝起きたら父が慣れない手つきで幼稚園の弁当を作っていた記憶がある。それから翌年、僕が小学校に上がるまで下の妹との思い出はほとんど無いが、意地悪つながりで一つだけはっきり覚えていることがある。上の妹が親と喧嘩して騒いでいたある夜、僕と下の妹は隣の部屋で先に寝ていた。騒ぎに気づいた僕は、この状況で下の妹が起きて泣き出せば面白そうだと思って、下の妹をつねってわざと起こした。痛かっただろう、すぐに泣き出した。しかし、僕が寝ている姿勢に戻るよりも前に母がふすまを開けたので、泣き出した下の妹を心配して手を差し伸べているかのように振る舞った。

自分でもぞっとするようなエピソードは、このあといくつも登場する。自分の中で最も許せない部分こうやって書きだして向き合うことが、この回想の目的でもある。

感覚

僕ら兄妹が寝ている部屋と居間はふすまで仕切られているだけなので、会話がよく聞こえてくる。熱を出して寝込んでいたら、両親が(たぶん冗談めかして)「このまま死んじゃったらどうする?」的な会話をしていた。それを聞いたら、父がよく見ていたテレビ番組「小さな旅」のオープニングテーマが頭で流れて急に悲しくなって、泣きながら居間に行ったのを覚えている。


小さな旅テーマ曲

このころから、体調が悪いと頭の中で、「大きいけど小さい」みたいな不思議な感じがするようになった。「不思議の国のアリス症候群」に近い気もする。感覚といえばもう一つ、焦ると射精に似た感覚を覚えるようになった。数年かけて消えていったがあれは何だったんだろうか。調べてみると似たような体験は珍しくないようだ。

怖がり

後年、僕は発達障害ではないかと母がやたらと疑ってきた時期があった。その根拠として、癇癪もちでよく泣いたこと、友達によく泣かされたこと、そして怖がりだったことを挙げた。具体的には鳥の羽と雷と水族館を異常なほど怖がったと言う。

その記憶は僕にもある。階段の踊り場に鳥の羽が落ちていたとき、僕は怖くて先に進むのを嫌がった。雷が鳴りだすと、耳をふさいで床にうずくまった。たしかにそれらは怖かった。未だに床に糸くずが落ちているとぎょっとすることがある。でも当時は演技も入っていた。怖がればかまってくれる。特に雷を怖がることは僕のアイデンティティになっているような実感があった。水族館を怖がるようになったのは、もう少し後になってから。地震で水槽が割れるのが怖くて一人で車の中で待っていたことがある。

近所の友達

このころ、近所に同級生の女友達が3人いた(たまたま女子が多かった)。一人は親同士仲が良く、その弟が妹と同級生だったため家族で出かけることもあった。山の方に出かけたときにタマムシを捕まえて感動したのを覚えている。その友達とは習字教室も一緒で、僕は得意だったがそれ以上に得意で、常に敵わなかった。そしてそれ以上にピアノが得意だった。なんだかんだで結局高校まで一緒だったが、あまり仲良くなることはなく、特に中学以降はなんとなく気まずかった。

もう一人は小学校に上がるタイミングで引っ越してしまったが、泊まりに行くほど仲が良かった。初めて泊まりに行ったときの洗濯機周りの匂いが印象に残っている(異臭ではない)。それから朝ごはんにはじめてラーメンを食べて、カルチャーショックを覚えた。その友達の母親が家に来た時、部屋の中で縄跳びを披露しだした記憶がある。

もう一人とは僕はあまり仲良くなかったが、妹がその友達と仲が良く何より同じ公営住宅に住んでいたので、なんだかんだでよく遊んだ。同じ公営住宅には年齢が少しずつ違う友達が多く、わりと恵まれていたと思う。庭で砂遊びをしたり、ボール遊びをしたり、お互いの家に行ったり、小学校低学年くらいまではよく遊んでいた。

就学時検診

小学校に上がる前の就学時検診で、はじめて校長先生の話を聞いた。その話の中で、童謡の「しゃぼんだま」は実は悲しい歌だということを知った。


【歌入り】しゃぼんだま(2015版) 子供向け童謡

それまでの「えんちょー」から「こうちょー」への違和感がすごくて、幼稚園で教わった時に「こうちょーだってさ」といってみんな笑っていた覚えがある。

祖父母の家

父方

その少し前に、父方の祖父母の家で偶然見たテレビで、切り株が足に刺さった事故の再現VTRを見た。それと似たような事故が僕の小学校で起きたらしく、就学時検診のときにはそのエリアに入らないように仮の柵が張られていた。その後本格的な柵が張られたので僕はその中に入ったことがない。。

祖父母の家は遠かったので電車で行くことが多かった。その乗り換えのとき、上半身だけ小さい女性が歩いている姿を見てショックを受けた覚えがある。

祖父母の家には犬と猫がいた。僕が寝転がっているときに、歩いている犬を下から見たらチ〇チンが見えたので指さして笑ったら、その犬が怒った。勘違いだと思うがやけに印象に残っている。そのチ〇チンと、洗濯機の排水口に付けられていた黒いパーツがよく似ているなと思った。

祖父と一緒に風呂に入ったとき、「次の人のためにオーバーフローするのがマナーだよ」と教えられた。風呂だからフローなんだと思った。

母方

その年のクリスマスは、母方の祖父母の家へ行った。めずらしく大雪が降ったので鎌倉を作った。来年から小学生ということで、祖父母から筆記用具や文房具をもらったが、それがクリスマスプレゼントだったのか、その年はサンタさんが来なくてとてもがっかりした覚えがある。サンタさんはたしかその前の年から始まって、そのときは自転車をもらった。

祖父母の家には母の知り合いが遊びに来ることがあった。その子供が僕より3歳くらい年下の女の子で可愛かった覚えがある。一緒に取った写真を見たらだいぶカッコつけていた。母の旧友の家に行ったときは、ランボルギーニの赤いミニカーをもらった。あとから祖父に聞いた話によると、その家族はむかし部落差別を受けていたそうだ。今は事業が成功してスポーツカーをはじめ車が何台も止まっている。