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【読書】どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?

ずっと悩んでいることがそのままタイトルになった「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」という本を読んだ。序盤は小難しくてどうなるかと思ったが、中盤以降はエッセイ集のようで読みやすかった。

内容は共感できるところが多かった。今まで自分だけだと思ってきた感覚がピンポイントで書かれていてドキッとした箇所がある。

無理に陽気にふるまっているのではない。(中略)気がついたときは、明るい顔をしてしまっているのである。
位置No.732

状況によって振る舞いが変わるのは当然のことだと思う。でも僕は一人でいるときとの差があまりにも大きい。人と接すると、普段考えていることなど吹き飛んで、気づくとその状況を無難に乗り切る精いっぱいの振る舞いをしている。後で一人になった時、その落差に自己嫌悪を覚えて、「次は少し態度を変えよう」と毎回思うのだけど、また同じことを繰り返す。

終盤には著者の息子のことが書かれている。その息子は、社交的でリア充で秀でた能力もあるのに気取らない。むしろ素朴で、意外なところで無頓着だと書かれている。

親がまごまごしているうちに、こうして息子は何にでもすんなり適応してしまうのである。
位置No.1771

コンプレックスにまみれてあえいでいた私のウィーン留学時代を思い起こしながら、息子の思い切りドライな言動を見聞きするたびに、「大したもんだ!」と心底感心してしまうのだ。
位置No.1808

僕は二人いるうちの下の妹に対して、まったくと言っていいほど同じ感情を覚える。僕が困難だと思うことに容易に適応して、毎日楽しそうにしている。それなのに純粋で無邪気だ。

6歳離れているが、妹が中学生のころ、ちょうど僕が大学を休学して実家に戻ったころ、具体的に何というわけではないが 「追い越された」と思った。漠然とした劣等感があって、でも楽しそうにしている姿を見ていたい。そういう相反する気持ちがしばらくあったが、今はもう完全に吹っ切れた。

そんな妹なのに僕に対して少しも偉そうにすることなく、むしろある面では慕ってくれさえする。たまに帰ってきて話をすると、こんなに人が苦手な僕でさえ純粋に楽しい気分になる。それが不思議だし参考にもなる。

著者と僕の境遇を比べてみると、似ていると感じる部分がいくつもある。

まず幼いころから「生きづらさ」があること。次に大学時代の進路変更とそれに続く引きこもり生活。そして、社会に適応することと生きる意味を問うことは相反することだと考えて、そのバランスを模索してきた(しはじめた)こと。

でも似ている部分でさえ、その程度は大きく違う。

僕の生きづらさはなんとなく程度だったし、生きる意味を問い始めたのも、著者の小学5年生に対して僕は二十歳を超えてようやく。著者は東京大学、僕は無名大学。著者は悩みに押しつぶされ自殺未遂もしている。家庭環境も、相当悲惨なものだったようだ。

一番の違いは、僕が生きる意味を問うことを今頑張らない言い訳に使っているのに対して、著者の場合はむしろ原動力になっていることだ。根本的な意欲が無ければ、いくら才能があっても東大になんか入れないだろう。世界がどうなっているのか知りたくて、引きこもっている間は毎月50冊ほどあらゆるジャンルの本を読んだそうだ。僕が50冊読むまで何年かかるか。

それでも方向性が似ていることは、僕なりのペースで真剣に考えている証拠にも思える。その一方で、著者ほどの人が長年徹底して考えてもなお答えが出ないというのは(本気で考えているからこそかもしれないが)、絶望的にも感じる。

二〇歳のころ、「死ぬこと」を解決しようとして、いや解決できないまでも、せめてそれにかかずらわっていきたいと願って、哲学を志した。だが、それから37年がたち、何の解決の糸口も見えないまま、老年を迎えようとしている。本当にどうにかしなければならない!
位置No.1973

でも著者の場合、社会的な地位を(あえて)あきらめ、社会との関りを最小限に抑えることで、ストレスがまるでなくなったという。そして人生を一歩離れて見ているうちにいつのまにか、生きることを肯定的にとらえるようになっていることに気づいたという。

困ったことに、死刑囚のように、「生きること」そのことがいとおしくなってきたのである。だから「死ぬこと」がますます厭になってきたのである。本当に困ったことである。
位置No.2017

自分なりに適応できるようになった結果、肯定的な感情が芽生えた。ということはつまり、いくら言葉で追究しようとしたところで、最終的には言葉では説明できない感情にたどり着くということなのかもしれない。適応できると快を感じる。生き物としての本能がそれほど大きいということか。

この本のように、ハッキリとした答えが出ないほうが僕は好きだな。未だ世界は分からないことだらけなのに、さも悟ったように断言する人ほどうさん臭いものはない。でもわからない以上、それすら否定することもできない。あくまで僕がそう感じるだけで。

ただ僕の場合は著者より人嫌いの程度が弱く、それどころか最近は、少し人恋しいと感じることもある。それに著者のような実績も経験も考える意欲もないから、ある程度は折り合いをつけて、社会と関わりつつ生活できるようになる必要もある。そのバランスをどうするか、具体的な手段をどうするか、まったくわからず途方に暮れそうになる。「なぜ生きるのか」という根本があいまいだから。でもこの上なく贅沢な悩みだと思った。