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自己責任!自業自得!

数日前、部屋の模様替えついでにモニターアームを買った。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

モニターアームを使えば、PCディスプレイを自在に配置できる。

でも設置は面倒だし、位置や角度の調整に気を遣うし、デメリットもある。安いものでもないし。

モニターアームを使うのは初めてではないのに、メリットしか眼中になかった。理由があって欲しくなったのではなく、まず欲しくなって、納得できるだけの理由が欲しかったんだろう。

最近は「なにか欲しいものが無いかな」と探して、それについて調べて1日が終わる。我ながら病的だと思う。

そしていざ買ってみると、ひと時の満足感で終わってしまう。でも買ったばかりだから、「必要だから買ったんだ」と自分に言い聞かせる。少し前に買ったタブレット用のスタイラスペンなんか、まさにそのパターンだ。

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モニターアームはやっぱりいらない。ノートPCにつなげている外付けのディスプレイもいらない。スピーカーもいらない。

before

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after

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一年くらい前に同じことを思って、PCの周辺機器を処分したことがあった。

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でもノートPCの使い勝手に慣れることができなくて、結局すべて買いなおすことになった。

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その時はノートPCの使い勝手の悪さをいくつか挙げたけれども、今となっては思い当たることがある。

その直前に、ノートPCの液晶を換装した。

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その作業で画面のフレームの爪を折ってしまい、さらに組み立て手順を間違えて、うまくはまっていないパーツがある。もう一度分解すればさらに爪が折れるからどうすることもできない。さらに、換装した液晶には輝度ムラがあった。「こんなノートPCを見たくない」と思った。僕は物への執着が強い。

この執着はどこから来るんだろうか。少なくとも、PCに執着する機能が脳に用意されているわけではない。

だから当然、生得的なものじゃない。経験的に、心理学でいえば「条件付け」によって、生存に必要な欲求と間接的に結びついているんだろう。

「せめてPCだけは人並みでありたい」という気持ちがあるとすれば、それは人からの評価が基準になっていることになる。

人から嫌われたら即死するわけじゃない。でも長い歴史の中で考えれば、仲間外れにされることが死を意味する時代の方が圧倒的に長い。他の個体に認められると安心する仕組みが遺伝子に組み込まれているはず。

だから人からの評価は気になって当然。それを「気にするな」というのは、「赤ちゃんを可愛いと思うな」とか、「ケガしても痛くないようにしろ」と言っているのと変わらない。

中には全く気にしない人もいるだろう。それは一種の才能だし、時代や文化が違えば生きていけないという意味では欠陥ですらある。つまり運がよかっただけ。

だけど今の時代、気にしすぎると不都合が多いことは事実。例えば僕のようにお外に出なくなってしまう。

僕もある程度は変われるかもしれない。その出発点と限界は人によって違う。

社会参加をしない人は、そうでない人から反感を食らう。これは仕方ないということが分かってきた。「ただ乗り」する人ばかりになると、社会が維持できないから。

でもそこに、「親の教育が悪い」とか「甘え」というような理由が加わると話が違ってくる。

理由は後付けなのに、そのことに本人は気づけない。だからその理由が本当の原因のように感じられてしまう。

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そうして、社会に適応できていない人やその身近にいる人が責められる構図が出来上がる。「自己責任!自業自得!」などと言いながら。

まあ、実際に面と向かって非難されたことはないんだけどね。そもそも人と会わないから。だから想像に過ぎない。いや、もはや妄想か?