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暮らしに役立つ心理学

このブログのアクセス数は少ない。しかもその大半が、タブレット端末について書いた記事に集中している。僕なりに考えたことを書いた記事については、全くと言っていいほど見られていない。

内容的にも、わざわざブログに書くほどのことじゃないという自覚がある。それなのにどうして日記じゃなくてブログなのか。

こんな自分を認めてもらいたいのかもしれない。社会参加した気になれるからかもしれない。でも最近読んだ「<わたし>はどこにあるのか」という本によれば、こうして思いつく理由はすべて後付けだという。

 

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

 

 

数日前にこの本について書いたが、強く思うところがあったので少し掘り下げてみたい。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

適当な理由を作り出す

重度のてんかん治療のために、大脳の左右を繋いでいる脳梁を切断することがある。こうして左右に分断された脳は「分離脳」と呼ばれる(日常生活には問題ないらしい)。

人の視野は、右半分が脳の左半球、左半分が右半球で処理されている。だから分離脳になると、脳の左右半球はそれぞれ片方の視野にあるものしか認識できないことになる。この性質を利用して次のような実験が行われた。

分離脳の人に対して、右視野と左視野で異なった絵を見せる。ここでは右視野(左半球)にニワトリの足を、左視野(右半球)に雪景色を見せた。

それに続いて、その絵と関連する別の絵を選んでもらう。すると右手(左半球)はニワトリを、左手(右半球)はショベルを指した。

そして、それらの絵を選んだ理由を答えてもらった。発話の中枢は左半球にあるから、右手で選んだニワトリとニワトリの足との関係は容易に説明できる。しかし左手で選んだショベルについても、「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」と即答した。

つまり左脳は、なぜ左手がショベルの絵を選んだのかわからにまま、無理やり理由をこしらえたのだ。(中略)持てる知識を総動員して、状況と矛盾しない後付けの答えをこしらえたのである。
(<わたし>はどこにあるのか p.104)

適当な理由を後からこしらえるのは、なにも分離脳の人だけではない。

アドレナリンという興奮作用のあるホルモンを、そうとは知らされずに注射された被験者たちは、興奮した理由を環境のせいにしたという。

上機嫌な態度に接した被験者は気分が高揚し、怒った様子には自分も腹を立てた。
(<わたし>はどこにあるのか p.111)

理由を作り出す理由

理由を作るというと、そこの意図があるような気がしてしまうが、ただの偶然かもしれない。

「記憶」は連想ゲームのような、ネットワークのようなものだと考えられている。ある知識が活性化すると、それと近い関係にある知識もつられて活性化することが知られている。

はじめに「看護士」という単語を提示し、直後に「医者」という単語か「サコヘ」というような非単語を提示して、あとに提示された文字列が単語か非単語かを、できるだけ早く、できるだけ正確に判断してもらう。このような実験では、「医者」を単語だと判断するのに要する反応時間は、はじめに「看護士」を提示した場合には、はじめに「バター」を提示した場合より短くなることが知られている。
認知心理学 '13 p.153)

目の前にライオンがいるとき、「ライオン」→「怖い動物」→「逃げよう」という判断が速いほど生き残る確率が上がる。ライオンがいた場所の特徴を覚えておけば、似たような状況でライオンが思い浮かんでくるので警戒することもできる。

だから理由を作ろうとしているというよりは、勝手に浮かんできてしまうのかもしれない。

社会的な能力は生まれつき備わっている

生後間もない新生児が、他者の顔の動き(舌出しなど)を模倣する「新生児模倣」という現象がある。

赤ん坊は模倣を通じて社会的な世界に入る。自分が周囲の人たちと同じだと理解し、他の物体ではなく人間の動き真似をする。
(<わたし>はどこにあるのか p.180)

社会的な能力は、生まれたときからすでに備わっているということだ。生後6~8か月の乳児が、社会的行動から相手を評価していることも確かめられている。

人を含めたサルの仲間では、脳(新皮質)の大きい種ほど社会集団も大きいことが知られている。集団が大きくなれば、一人一人を記憶したり、お互いどんな関係にあるか理解したりする必要がある。 人類学者のロビン・ダンバーによると、ヒトにふさわしい社会集団の規模は約150人らしい。これはチンパンジーの約55頭と比べてもはるかに大きい。

大きな集団を維持するためにはお互いに協力することが欠かせない。

大規模な社会集団で生きていくために必要な協力レベルを実現するためには、人は攻撃性と競争心を和らげる必要があった。他者への攻撃性や横暴な態度が行き過ぎた者は、集団から追放されるか、殺されるかした。
(<わたし>はどこにあるのか p.198)

こうした社会的な淘汰によって集団生活に適した者が選別されていった。生まれつき集団生活に適した素質を持っていればそれだけで有利になるから、結果的に遺伝子レベルで変化が起こる。

社会生活に有利な個体を選別した結果、新たな能力を獲得した例がある。

ベリャーエフが一九五九年にシベリアで着手したキツネの家畜化プロジェクトは、今でも続いている。家畜化候補を選ぶ基準はただひとつ、手を差し出して一番早く近くに寄ってきた子ギツネである。こうして人間を恐れず、しかも攻撃的でない個体を選り分けていった。(中略)家畜化されたキツネは、指差しや視線と言った人間のしぐさに犬と同じくらい敏感に反応するようになった。
(<わたし>はどこにあるのか p.198)

道徳的なジレンマ

「トロッコ問題」という、道徳的ジレンマを引き起こす架空の問題がある。

トロッコが暴走を始めた。このまま行くと線路上にいる五人の作業員は死んでしまう。彼らを救うには、デニーズが分岐器を切りかえてトロッコの進路を変えるしかない。だがそうすると、変更された線路上にいる別の作業員ひとりが死ぬことになる。デニーズは一人を犠牲にして五人を救うべきか?
(<わたし>はどこにあるのか p.211)

僕はこういう問題に対して「そんな状況はありえない」「なにか別の方法があるはずだ」などと言ってごまかす人間だ。でも二者択一で選ぶと、実に9割もの人が、進路を変えることに「賛成」と答える。

そこに年齢や文化は関係なく、そう答えた理由はさまざまだった。でも論理的なものは皆無だったというから、「ただなんとなく」しか分からないということだろう。

この問題は、内容を少し変えるだけで結果が大きく変わる。

同じく暴走トロッコが五人を殺そうとしている。線路をまたぐ鉄橋の上に、フランクと太った男が立っていた。フランクは彼と全く面識がない。もしフランクが男を線路に突き落としたとしたら、トロッコは止まる。もちろん男は死ぬが、五人の作業員は助かる。フランクは一人を死に追いやってでも五人を救うべきか?
(<わたし>はどこにあるのか pp.211-212)

今度は9割の人が「反対」と答える。

ところが脳の「腹側内側前頭前皮質」と呼ばれる情動に関係する領域を損傷した人は、なんのためらいなく賛成するという。

似たような問題として「最後通牒ゲーム」がある。

参加者は二名の一ラウンド方式。プレーヤーAが二〇ドルをプレーヤーBと分け合う。割合はAが決めてよい。提示額をBが了承すれば、A、Bともに現金を手にすることができるが、Bが拒絶したら二人とも一ドルももらえない。
(<わたし>はどこにあるのか p.222)

プレーヤBは、どんな金額を提示されても了承した方が得だ。でも実際には公正だと納得できる金額に達しない限り了承しない。

ところが電気刺激によって「右背外側前頭皮質」という部位の働きを妨害すると、プレーヤーBは不公正だと感じつつも少ない提示額を受け入れてしまうという。

道徳を生み出す神経回路は脳全体に広く分布しているらしく、すでにいくつも確認されている。自動的な共感、他者に対する暗黙の評価、情動反応を含む社会的反応は多くが生まれつきのものであり、それらが道徳がらみの判断に参考情報を提供している。(中略)私たちは、生まれつき配線されている道徳的行動を実行に移したあとで、そこに解釈を与えているのだ。
(<わたし>はどこにあるのか p.222-223)

最後通牒ゲームでわかったように、人は自分が損してでも非協力者を懲らしめようとする。一回きりのゲームだからといって容赦はしない。それに懲罰が行われないと、集団の大小にかかわらず「ただ乗り」するものが出現し、協力関係が破綻することは理論モデルと実験的証拠の両方で立証されている。
(<わたし>はどこにあるのか p267-268)

まとめ

要点を手短にまとめるとこのようになる。

・理由は後付けで正しいかどうかは重要ではない
・道徳観を含めた社会的な能力が、生得的に備わっている

この二つは個人的にはどちらもこの上なく重要だと思う。その理由を書いて終わりにしたい。

理由が後付けなら

何か起こった時に思いつく理由は、そのどれもがもっともらしく感じるし、客観的に見ても正しいと思えることも多い。でも分離脳の人の例にあるように、どんなにこじつけでも本人は気づけないということが分かった。

僕は母と話すとイライラして仕方ない。毎回そこには確かな理由がある。

例えば母は頼みごとができず、僕が自分から「やるよ」と言い出すまで回りくどく誘導してくる。思惑通りになれば腹が立つし、無視すれば罪悪感を覚える。どちらにしても嫌な思いをする。かといって「そういうのやめろ」という勇気はないし、言ったらかわいそうかなとも思う。

要するに、僕か母のどちらかが変わらない限りイライラし続けなければならない。

でも改めて考えてみれば、母が回りくどく誘導してくるからといって、僕がイライラしなければいけないという決まりはない。つまり母と話しているときになにか不快感を感じるのは事実だが、それに分かりやすい理由をとってつけているだけじゃないか。

それによって母はどうしようもない人だという先入観が出来上がる。そしてどうしようもない部分しか見られなくなってしまう。まさに負のループだ。その状態で仮に母が変わっても、また別の不満が出てくるに決まっている。

それなら僕が変わろう。変わるといっても寛容になるわけじゃない。それができるならとっくにやってる。母と話すときに不快感があることは事実として認めつつ、浮かんでくる理由が「正しいとは限らない」ことを常に意識してみようと思う。

道徳観が生得的なら

勘違いをしていたかもしれない。僕は社会参加できていない自分を肯定することが正しいことだと思っていた。逆にニートやひきこもりを非難する人は、自分で考えることもせず一般常識にとらわれて、そういう人に限って人並みの幸せ()を求めて結婚して家庭を築いて子供をもうけ、図らずとも自分の価値観で洗脳して、その次の世代も似たようなことを繰り返す。バカじゃないのかなと。

でも道徳観が生得的に備わっているなら、「ただ乗り」を不快に思うことは当然じゃないか。もちろんそれに従うことが正しいとは思えないが、僕が働かずにいること、そしてそれを正当化することで、不快になってしまう人がいることは事実だ。「僕の方が正しいからその不快は我慢してください」とは言えない。

僕のような状況を批判する人たちと同じくらい視野が狭かったことに、やっと気づけたということか。