ひきこもりから自立を目指す

日常や心境を記録中・・・

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なぜ録画した自分の姿や録音した自分の声は気持ち悪いのか

小学3年生のころだったと思う。僕は教室にいる自分を客観的に見ている夢を見た。先生に指名されて皆の前に行って戻ってくる、その一挙一動がわざとらしく、気持ち悪いと感じた。

高校生のころ、携帯で録音した自分の声を聞いたときは、あまりのキモボイスに本当にショックを受けた。もともと見た目には自信がなかったし、動作だけでなく声まで気持ち悪いとなると、本当にどうしようもない。

この感覚はなんなんだろう。自分の声が気持ち悪いと感じる人は多いらしいし、僕だけではないはず。

この前書いたように、どうやら気持ち悪いと意識したときにはもう、脳の方で処理が済んでいるらしい。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

そうすると、不快感はたしかにあるが、「自分が気持ち悪い」という理由はでたらめの可能性もある。理由は常に後付けだから。

映像や声が脳に届く

脳がそれらを統合して処理する

不快感を感じる

その理由を探す(理由が分からなければ適切な行動がとれないから)

そうか、自分が気持ち悪いんだ

そもそもこの不快感はどこから来るのか。

自分の声を気持ち悪いと感じる理由を調べてみると、「自分の声は耳から伝わるだけではなく、体の中から鼓膜に伝わる音もあるから」というような説明がが多い。

確かにそうだろうが、それがなぜ違和感ではなく不快感になるのか。

例えば親しい人が風邪で喉をやられても、その声を聴いて気持ち悪いとは思わない。自分の声をボイスチェンジャーで匿名ボイスにしても気持ち悪いと思わない。

昨今はSNSに自撮りを投稿したり、YouTuberのように顔出し動画を投稿することが当たり前になっているが、どうして彼らは平気なんだろう。その中にはお世辞にも見た目が良いとは言えない人も多いから、自信だけじゃなかろう。

本当に僕は自分で思うほど気持ち悪いのか?改めて自分を客観的に見てどう感じるか知りたくて、勇気を出して動画を撮ってみた。ギターを弾いたり、歯を磨いたり、背中をかいたり、できるだけ普段通りの行動を30分ほど。

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で、それを見てみたら思たほどではなかった。目をそらしたくなる場面は何度かあったが、モザイクをかければブログに張れるレヴェルではある。

印象的だったのが、最初ギターを弾いている自分を見て、「あれ、左右逆か?」と思ったことだ。

他の人がギターを弾いている動画は見たことがあるし、それに対して違和感があるわけでもない。ということは、僕は鏡を見るような感覚で動画を見ようとしたことになる。

いや、鏡というとややこしくなるかもしれない。鏡は左右ではなく前後が反転しているらしいからだ。

うん、ややこしいな。でもさらにもう一つ、自分のおでこに紙を当てて文字を書くと、鏡文字になることも知られている。

www.hinapishi.com

ここはまだ整理できていないから、こじつけになってしまうかもしれないのだけど、詰まるところ、動画に映る「自分」に限っては自分の内側から、自分そのものとして見ようとするんじゃないか。動画に映る自分はこっちを見ているのに、鏡とは違って左右が逆になる。おかしい。

録音した声については、自分とよく似た声が自分と同じことを話している。これは自分の声だ。でも自分は今話していない。おかしい。これは動画についても言えるな。

この二つが不快感の正体じゃなかろうか。そもそも録音とか録画なんて近年登場した技術だし、脳が対応できずに混乱してもおかしくはない。

それなら、鏡に映った姿や後ろ姿を録画したり、録音した声に合わせて同じことを話せば、気持ち悪さが薄れるはず。

実際にやってみたら、明らかな効果があった(明らかな先入観もあったが)。あえて気持ち悪い動作を入れてみたり、上ずった声で話してみても、完全なる余裕をもって最後まで視聴することができた。

自分の声を聴きながら話すことについては、前にやったことがあったが、まさかこのような形でつながるとは。まあ、無理やりだけどね。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

こじつけ終えたところに、さらにこじつけを重ねてみたい。

僕は自分だけでなく、自分と似ている部分、例えば父親の歩き方だったり、母親の話し方に対しても、同じような気持ち悪さを感じる。

なんかその行動の裏にある心境までわかる気がするんだよ。そしてそれが録画した自分を見ている感覚に近い。自分とよく似ているようで自分じゃない。

てっきり、僕は自分のことが嫌いで、だから自分と似ている人も嫌いなのかと思ってきた。それに対して毎度イライラして、毎度悶々としてきた。「なんで似てんだよ!」なんて怒ったところで、おかしいと思われるだけだ。

でも理由はすべて後付けなら、それが正解とも限らない。

ここで考えたことと照らし合わせれば、相手が似ているかは重要ではなく、僕自身、自他の区別があいまいなことが問題じゃないのか。つまりつまり「自分は自分、他人は他人」ということが実感できるようになれば、両親に対するイライラも、自分の動画を見たときの気持ち悪さも、無くなるかもしれない。

僕の妹は、僕と同じように母に対する不満を持っている。それでも母と屈託なく話すことができる。それは妹が、母とは別の人だという感覚を強く持っているからじゃないか。

YouTuberが顔出しを厭わないのも、自他の区別がはっきりできているからで、そもそも自分の動画を見て気持ち悪いと思わないんじゃないか。

人気YouTuberは、なんか好感持てる。内容はくだらなくても、ただ見ていたいと思わせる何かがある。社会不適合者の僕でさえそうなんだから、そりゃ、人気出るよな。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

今回録画中、僕はどうしてもカメラを意識してしまった。録画だけならまだしも、それを自分で見ることが分かっているから、気持ち悪い自分を見たくないと思った。僕が人を怖いと思うとき、その人に気持ち悪い自分を魅せているのではないかという不安があるが、それと質としては同じだった。

だから、自他の区別がはっきりすれば、人が怖くなくなるかもしれない。

でもそうすると、また一つ問題が出てくる。僕は最近、自他の区別をなくす方向に行こうとしていたからだ。

それは、自分の意識と周りは切っても切れない関係にあることが分かってきたから。でもそれは自他の区別をはっきりすることと相容れないことなのか?

焦点がぶれまくりだ。