読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
MENU

人によって態度を変えるぼく

久しぶりに外出したら、その帰りに大雨に振られた。顔のあたりは傘で死守したが、それ外はずぶぬれ。そうやって家に着いて玄関に入った時の、静かで温かい安ど感がたまらない。

最近は天気が悪いこともあって外出もせず、かといってやることもないのでずっとPCの前に腰かけていたが、それにも飽きてきてボチボチ読書をするようになった。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

そうして「意識」に関係する本を3冊読み終えることに成功した。

そのどれもが難しく、理解できたとは言い難い。ところどころで著者との間に圧倒的な差を感じて、自分は凡人であることに気づかされる。

気づかされるということは、自分は凡人じゃないと思っているということだ。たしかに意識について考えているときも、僕(だけ)はいつか納得できる答えにたどり着けるという、根拠のない自信がある。

それ自体は悪いことではないかもしれない。でも僕が他人に対して見せる、「自信がなくオドオドしているぼく」とは正反対で、裏表がありすぎる。それを長所か短所かで言ったら間違いなく欠点になるだろう。

でも最近本を読んでいると、心の問題については「個人と他とを切り離すのではなく、関係性のなかで考えるべきだ」という内容がたびたぴ出てくる。

一貫した自分など存在しない、相手ありきだと。

意識は実在しない

なるほど確かにその通りかもしれない。例えば僕が人を怖いと思うのは、そこに人がいるからだ。僕一人で起こしていることじゃない。相手よって怖さのレヴェルも違うし。

相手が物の場合も同じことが言える。今、目の前にPCがあるからキーボードを使って文字を打っているが、PCが無ければ当然打っていない(キーボードだけで我慢している女子高生もいるらしいが)。

つまり、僕がPCを使っているのと同時に、PCに僕が使わされていると言うこともできる。

1学期に履修した「哲学への誘い」の中で、J.ギブソンの「アフォーダンス」という考え方が紹介されていた。

環境に住み着いている私たちの主体的働きかけに呼応するように、対象の方も生きたものとして自らを示す。(中略)例えば道についてならば、道は私たちに歩くことをアフォード(提供)してくれるものである。
(哲学への誘い '14 p.295)

「は?」としか思えなかったが、今なら少し分かる。

今回1冊目に読んだ本はその考えをさらに推し進めていて、「意識は実在しない。例えば「赤い」という感覚は意識ではなくその物の側が持っている性質にすぎない」というようなことが書いてあった。

意味が分からない。

 

 

わたしはどこにあるのか

「ブログを書きたいからキーボードを打っている」というもっともらしい理由は、脳(左半球の一部)が作り出したストーリーであって事実ではない。3冊目に読んだ本にはそう書いてあった。

どうやら数々の研究の結果、意識というものは後付けの経験らしい。

情報を集めて、計算し、決定を下す。意識的経験の感覚が得られるのはそのあとだ。
(<わたし>はどこにあるのか p.159)

ここでは分かりやすい例が1つ紹介されている。

指先で鼻に触れると、指と鼻が同時に感覚を覚える。けれども鼻の感覚を脳の処理領域に伝えるニューロンは、長さが八センチ弱しかないのに対し、手の感覚を脳に届けるニューロンは、長さが1メートルに達する。(中略)神経信号は脳に同時に到達していないにもかかわらず、指と鼻が触れたのは同時であるという決定が下されたのである。意識的経験はそのあとに起こった。
(<わたし>はどこにあるのか pp.159-160)

それじゃあ、脳(神経細胞)の働きからこの意識はどうやって生まれるのか。そこには「創発」という現象が起こっていると、その本には書いてある。

わが家の居間を転がるボールは原子で構成されていて、量子力学で説明できるふるまいをする。ところが微視的な原子が集まって大きなボールになると、新しいふるまいが出現し、それはニュートン力学で説明される。
(<わたし>はどこにあるのか p.157)

つまり、原子が集まることによって創発が起こり、全く異なる性質が生まれたことになる。

この考え方は、まとまりを重視するゲシュタルト心理学に近い。ゲシュタルト心理学量子力学も共に20世紀初頭に登場したことは偶然ではないかもしれない。

もっとも創発は物理学だけでなく、生物学、化学、社会学、美術など、さまざまな分野で見られる現象らしい。

例えば美術には「点描」という、その名の通り点をたくさん描いて表現する技法があるが、点の一つ一つを丹念に調べたところで、そこに何が描かれているのかは分からない(ちなみに点描の発展も19世紀後半だから時期的には近い)。

著者はそのような考え方、を脳と意識の関係、さらには責任感のように社会的な性質にも当てはめて考えている。

私たち神経科学者は、個々の脳という誤った構造レベルから見ているのではないだろうか。行動にしても、責任や自由の感覚にしても、多くの集団相互作用で見出される創発的な性質だ。
(<わたし>はどこにあるのか p.167)

・心の状態は単純な足し算では説明できない(創発が起こる)
・脳は常にもっともらしい理由をでっちあげる

この二つを前提に考えてみると、僕が「あー、人がいる」と意識した時には、もうすでに怖がっていることになる。それは、遺伝的要因や過去の経験、今の状況などあらゆることが関わって、幾度となく起こった創発の結果だ。

脳は同時に、その人が怖いと感じるに足りる理由をでっちあげてくる。「そもそも人が怖い」「じろじろ見られている気がする」「冷たい感じがする」「怒っているんじゃないか」。そうして僕は、目の前の人が怖いということを意識することになる。

でも話してみたら「意外といい人だった」と思うことが多い、というより話せさえすれば十中八九そう思う。

それは話しているうちに恐怖心が解けていくだけでなく、恐怖心が解けていくことで、それを説明するための理由をでっちあげる必要もなくなるからだろう。そして似たようなことは相手にも起こっているはず。

とはいえ実際は、話し始めるまでが恐ろしく難しい。「話しかけられるのを待っています」と書いたプラカードを、傘のように気軽に持って歩くのが当たり前になったらいいのに。

 

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

 

 

こころはどこから来て、どこへ行くのか

意識は実在しないと考える専門家もいれば、創発によって生まれると考える専門家もいる。僕はそれらのどれ一つとして理解できていないが、意識の正体がまだ分かっていないことは確かだろう。

でも最近読んだ本に限って言えば、個人と他とを切り離すのではなく、関係性のなかで考えようとする視点は共通している。

2冊目に読んだ本によると、この発想は何も最近生まれたものではなく、時代によっては当たり前だったらしい。

1990年代に多重人格や解離性障害が、北米や日本でも急増しました。現代心理学はこれにクローズドシステムを当てはめ、自己内の別人格として理解しますが、前近代のオープンシステムの世界観では、霊の憑依や祟りであると考えます。
http://sauvage.jp/activities/3277

その種の治療には、多くの住民が参加します。何故なら、変調や病気といった問題が属するのは個人ではなく共同体(≒自然・異界・宇宙)なので、その秩序回復をしなくてはならないからです。そこに「個人」という考え方ができて心理療法が成立し、外に広がっていたこころは個人の中の「無意識」として置かれました。
http://sauvage.jp/activities/3277

 

〈こころ〉はどこから来て,どこへ行くのか

〈こころ〉はどこから来て,どこへ行くのか

 

 

ちなみに上で引用した通り、本の内容の一部は下記のリンクから見られる。

第1回京都こころ会議(2):河合俊雄教授、山極壽一教授講演レポート | 明治大学 野生の科学研究所

まとめ

「意識の状態と周りとが切っても切れない関係にある」ということが分かった。逆に言うと3冊も読んでそれしか分からなかった。まだまだ前提となる知識があしりない。