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「感動ポルノ」は無くならないと思った

相変わらず堕落した生活を送っている。昨日は夜ずっとYouTubeを開いて、そのうち難病や奇病の動画を見だした。はじめは興味半分から。

先日の24テレビの裏で、NHKの「バリバラ」という番組が「検証!<障害者×感動>の方程式」と題した内容を放送して話題になった。そこで「感動ポルノ」という言葉が出てきた。これは障害者が健常者に勇気や感動を与える道具になっているという主張で、そんなことを思い出しながら動画を見ていた。

たしかに、YouTubeのコメントも、「自分は幸せ」「当たり前のことに感謝しなくては」という内容が多い。むしろそう思えることが素晴らしいとする風潮さえ感じる。

でも病気、事故、災害に見舞われる可能性は誰にでもある。多くの人には現実をポジティブにゆがめて捉える傾向があってこれはポジティブイリュージョンと呼ばれるが、その中に「楽観性バイアス」という、自分には良い出来事が起こりやすく悪い出来事は起こりづらいと考える「楽観性バイアス」も含まれている。

もちろん多くの人に共通するということは、それなりの意味があるんだろうが、悲惨な出来事に見舞われる可能性があることは事実だ。その中には、本当に救いようのない苦しみがあることを知った。まさに生き地獄。本人だけでなくその周囲も辛過ぎる。僕は最近、一人ではなく集団で助け合うことが大切だと考えるようになったが、それにも限界があると思わずにはいられない。

それは治療、緩和ケアに限ったことではない。例えば顔面を欠損した人を見れば「気持ち悪い」と思ってしまうからだ。麻薬におぼれた人が立ち直ることができないように、どうしようもないこともある。だから真のバリアフリーは実現できないと思う。ネガティブな感情にもっともらしい理由を付けて感動にすり替えることは、認知的不協和を解消するためには仕方ないとも言える。

起こってしまうことは仕方がないから、その捉え方を変えるしかない。そうなると、意識や心の問題が浮かんでくる。少なくともそれらに対して素朴なイメージを持ったままでは、苦しみから逃れることはできないということだ。

絶世の美女だって、体の表面が1mm削れただけでグロテスクな生き物に変わる。だからと言って、削られた皮膚だけを見て魅力を感じるわけがない。一体何に魅力を感じるんだろう。そう考えると、脳によって機械的に反応しているだけのような気がしてくる。