ひきこもりから自立を目指す

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相模原の事件を受けて

どうせ生きるなら幸せでいたい。でもそこに何か条件が付くと、それを失う不安が付きまとう。だからと言って、何にも依存せずに生きることは出来そうにない。仮にできたとしても、その考えを死ぬまで持ち続けられる保障はない。考え方は脳次第でいくらでも変わってしまう。

それらを考慮したうえで、どんな人にもどんな状態の人にも通用する考え方が欲しい。でも言葉にする以上、それを理解できる能力が前提になってしまう。そこでしばらく行き詰ってしまったが、人間を一つの集団とみなして、お互い助け合えばいいじゃないかという、ごく当たり前の結論にたどり着いた。

その考えを推し進めるためには、それとは真逆の優生思想について知っておきたい。まさにそう思って少し調べた翌日、相模原の殺傷事件が起こったことを知った。

もう一つ、この事件と最近考えていることと重なったのは、どこまでがその人の責任かということだ。事件の被疑者がこのような行為に及んだ原因を一つに絞ることはできないし、特定することもできない。極論だけど、全く面識のない僕だって間接的には関わっている可能性がある。施設の入居者が障害を抱えることになった原因についても同じ。それは僕がいい年して働いていない現状についても言えるし、悪い面ではなく良い面にも言える。例えば歴史上の偉人は他の誰一人欠けても生まれなかっただろう。

心理学の勉強をしていると、「自分 = 今自分と思っているこの意識」という当たり前の感覚を見直さざるを得なくなってくる。遺伝子をもとに脳が作られること。人と人が関われば、お互いの脳に変化が起こること。脳に変化があれば性格も変わること。自分で意識できる部分、コントロールできる部分はごく一部に限られているということ。その自分さえも遺伝子と環境によって作られたと考えれば、意識が自分を作ったわけではないことが分かる。ただ1つの身体に1つの意識があって、それが自分のすべてという思い込みがあるばっかりに、他とは切り離された「個人」と呼ばれ責任を負わされる。

考え方の変化に伴って捉え方は大きく変わった。相変わらず失敗すれば悲しいし、褒められればうれしいが、その僕を俯瞰してみている意識もある。そこから見ると、現状の、過去の結果としての僕を、意識が引き受けてやっていると言った方がしっくりくる。

ところで、優生思想が目指すところはなんだろう。Wikipediaの「優生学」では、「知的に優秀な人間を創造すること」、「社会的な人的資源を保護すること」、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減すること」が挙げられている。思想の是非は僕には判断できないけれど、苦しみを軽減することには同意できる。今回の事件の被疑者は「ヒトラーの思想が降りてきた」と言っているが、やるべきことはむしろ逆だったんじゃないかと思う。

自分や親しい人が障害を抱える可能性は必ずあるんだから、むしろどんな状態でも幸せでいられると確信できるのが理想だろう。自然界なら淘汰されるような存在を尊重することは、そうでない人たちの安心を保障することにもなる。

一方で、そもそも人にはナチュラルな優生思想が本能として備わっているはずだと思う。生きるか死ぬかの時代に、普通のことが普通にできない個体にかまっているようでは共倒れになってしまう。それが現代では形を変えて当事者の家族や福祉関係の仕事で見られることは、今回の事件を通してわかったことでもある。

僕が知っているのは軽度の障害者だった。意思疎通が図れない人、力任せに暴れる人、ひたすら自傷行為を続ける人、そんな人とその周囲の現実を目の当たりにすれば、双方のためにもいなくなった方がマシだと、僕も考えるようになるかもしれない。だから何も知らない僕が「お互いを支え合う」などと言ったところで、きれいごとにしかならないだろう。

でもやっぱり目指すべきところは誰もが安心できる社会だと思うんだよな。これからの時代、人工知能やロボットも発展してくだろうし、常識のほうを変える余地は十分にあると思う。そう思うのは、僕が、人との関わりが苦手で生きづらさを感じる社会的弱者だからだろうか。

今学期履修した「心理臨床の基礎」で、(自分でも意外だったが)コミュニティ援助に興味を持った。あと1年で卒業するだろうし、その後の進路について、そろそろ真剣に考えようと思っている矢先に今回の事件が起きて、このようなことを考えた。