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ポジティブ・イリュージョン

先週から妹が、1歳半になる姪を連れて帰省してきている。訳あって会うのは1年ぶりだが、もうじきハイハイしそうだった姪がすっかり走り回る様になっていて驚いた。愛嬌もあって可愛い。

妹は母親として、そろそろしつけを始める時期にあるが、今は何かできたら褒めることに専念している。心理学でいえばオペラント条件付けによって、望ましい行動が強化されていくだろう。一般常識を身に着けることはそのまま生きやすさにつながるから、これは確実に姪のためになると思う。

でも同時に「できる = 望ましいこと」という考えも教え込まれてしまう。僕だっていずれ老いればできないことは確実に増えるし、いつ病気や事故で状況が変化するか分からない。条件付きでしか肯定感を得られないと、その条件をいつ失うかわからない不安が常に付きまとう(正直に言えば姪が可愛いと感じるもの条件付きだ)。

どんな人にも、どんな状況にも通用する考え方が欲しい。それをすべての人に適用する必要はないが、納得するためにはそれができるという確信が欲しい。

数年前に、立て続けに自己啓発本を読んだ時期があった。その中でも特に影響を受けたのはスピリチュアル系のものだった。そこで書かれている具体的な内容というよりも、今までの世界観が絶対的なものではないかもしれないと思えたことが大きい。その意味では最近勉強している認知心理学と似ている。

一般常識に固着することは、見方によっては理性的で人間らしいが、自分で考えようとしないという意味で、それから世界観が固定されていしまうという意味で動物的でもある。悩みがあればその表面だけを撫でて、既存の枠組みの中からしか見ようとしない。僕はそうありたくないと思う。

でもそれこそ、ある程度考えられる状態にあることが条件になってしまって、それを失う不安が付きまとう。

でも実際にそれを失ったときにどう感じるかは、想像しかできないから分からない。現に今の僕の状況は、過去の自分からすれば耐えられないものだった。大学を卒業して就職することが当たり前だと思っていたのに、その流れから外れてしまった。友達もいない。それなのに、今は肯定的な感情のほうが大きい。逆に当時の考え方のまま、なんとなく行ってしまったことを想像すると恐ろしいとさえ思う。

今の僕の状況が、みじめだとか、みっともないとか、かわいそうとか、やせ我慢だと捉える人がいるだろう。僕自身にもそれらは多少なりともあるし、自分以外のこととなれば同じことを思う。

どちらが良いとかではなく、その人自身の状況をどう捉えるかは主観的なもので、現状をより良く捉えようとする適応力を持っていることが分かる。このような傾向はポジティブ・イリュージョンと呼ばれていて、多くの人に共通している。例外なのが抑うつ傾向にある人で、つまり抑うつ傾向の人が何事もネガティブに歪めて捉えるのではなく、多くの人が何事も(適度に)ポジティブに歪めて捉える傾向にあるということだ。

だから僕が客観的に見ればみじめな経験から、多くのことを学んだり成長できたと感じるのも、幻想かもしれない。たしかに、絶対的に正しいことが分からない以上は、どうあるのが望ましいか判断することもできないから、この変化が望ましいかも分からない。 自分の中では正しくても、それはあくまで主観的なものだから、このことに気づいてない人は愚かだとかかわいそうだと言うことは、幻想に支配されていることになる。

でもそう考えることが正しいと思うことさえ幻想かもしれない。そうして辿っていくと、意識というもの自体が幻想でもおかしくない。自分にとっては意識がすべてだが、進化論的に見れば意識は適応のために都合がいいから備わっているだけであって、決して意識のために生きているわけではないんだよな。