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いずれ死ぬのになぜ生きるのか

「いずれ死ぬのになぜ生きるのか」、多くの人が10代に一度は考えるらしいこの問題に、僕は26歳になった今はじめてぶち当たって、どうしていいか分からなくなってしまった。死んだら何も無くなると思う。それなのにどうして頑張るのか。

この難しい問題に、皆はどう折り合いをつけているんだろうか。調べてみても納得のいく答えは見つからない。どれも生きることが前提になっていてフェアじゃないんだよな。

人間も動物だから生きるようにできている。それにもっともらしい理由を後付けしているだけじゃないか。実際に人はなんでも納得したがる傾向がある。そのためには都合のいい理由を作り出すし記憶まで作り変えるということが、勉強を通して分かってきた。

「死ぬ間際に良い人生だったと思いたい」「それを探すのが人生」「終わりがあるから頑張れる」

死んだこともないくせに偉そうに。何を根拠に言っているのか。耳障りのいい言葉を、すまし顔で並べやがって。

そんな悪態をついているうちに、ふと思った。死んだ後のことなんて生きている限り分かるはずないじゃないか。「死んだら何も無くなる」ことが今は一番妥当に思えるけれども、それだって死後の世界や輪廻転生と同じ可能性の一つに過ぎない。

それでもやっぱり「生きる意味」が欲しい。見つかるまでは何も頑張れそうにない。それは自分が老いても、病気になっても、いつ死ぬかわからなくても通用するものでなければ。

要するに僕は、死後がどうこうではなく、死ぬまでに遭遇するかもしれない苦しみ、現に頑張れない後ろめたさから逃げたいだけだ。

例えば勉強のために読書をすると、その分野の専門家である著者は、それが好きで熱中していることが伝わってくる。そんな人と張り合うわけじゃなけど、「自分はとてもそんなバイタリティを持てないな」と少し落ち込む。

このような「劣等感」に対しては、「ありのままの自分を認めること」が大切だとよく言われる。僕もそう思って、どうすればいいか自分なりに考えてきたし、少しは近づいている実感もあった。でも認める理由を突き詰めていくと、結局「生きる意味」が必要になってしまう。

それについて初めて真剣に考えて、「分からない」ということを実感できた。分からないなら、そこから演繹的推論をすることはできない。当然、絶対的な価値判断もできない。だからバイタリティに溢れている方が正しいとも言えない。もしかしたら人生は、怠けたもの勝ちのゲームかもしれないじゃないか。逆にそうだという確証もないから、頑張らない理由にもならない。(どこまでが自由の領域かも分からないが。)

この考え方で行くと、自死を否定することはできない。でも僕は今死にたくないから、「生」の範囲内だけを意識すればいい。その中で考え方次第で楽になる部分は変えていくこと、具体的には「価値判断をしない」ことが重要になりそうだ。というのがとりあえずの結論になった。

こうしてみると、「何のために生きるのか」に対する、ありきたりで耳障りのいいだけだった言葉たちが違った意味を帯びてくるような気がする。やっぱりよく使われるだけの意味があるのかもしれないな。