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職場見学から

 「放課後等デイサービス」の施設へ初めての職場見学へ行った二日前は、いろいろなショックが重なって混乱してしまった。感情的になりすぎた感があるので、もう一度振り返って考えを整理してみる。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

 見学の前にあれこれ想像しても不安になるだけだから、できるだけ何も考えないようにした。その一方で、僕が小さいころからいわゆる障害児とかかわる母の姿を見てきて、ある程度知っているという自負もあった。しかし実際の職場は、なんとなくあったイメージが通用しない全くの別世界だったことにまずショックを受けた。

 心理学の勉強で言えば「教育心理学概論」で出てきたカーミロフ・スミスの実験に似ている。その実験では幼児を年齢ごと3つのグループに分けてある課題に取り組ませた。その結果、年中グループよりも年少グループの方が良い成績を収めている。年中児は不完全ながら自分なりの理論を持っていたばかりに、それが試行錯誤の幅を狭めてしまった。しかしその理論が精緻化された年長グループは一番いい成績を収めている。他にも予想が大きく外れることが概念変化を引き起こすという内容も出てきた。

 だから中途半端なイメージを持つことは悪いことではないし、ある意味順調な学習過程という見方もできる。でもそれを繋げることが難しい。

 それから、僕にとっては全くの別世界で働いていた母を尊敬する気持ちが出てきたことに戸惑った。それは普段母のことを見下しているからこそだが、いくら未熟に見える、あるいは気に入らない人からでも学べることはあるということか。相手の言うことを受け入れると、その人に飲み込まれて上下関係ができると錯覚していた。

 そこへ来る子供たちは、一般に普通とされている生活を送ることが難しい。その意味では僕が未熟だと感じる人に該当するはずなのに、見学に行く前からその子供たちから学ぶことは多いと考えていた。そう自分に言い聞かせることで、子どもたちと対等な目線に立ったつもりでいただけで、見下していないアピールがしたかったのかもしれない。

 見学しているときに実際そこで働く自分の姿を想像してみると、何をすべきか分からず棒立ちする姿が思い浮かんだ。とても上手く立ちまわれそうにない。子どもたちに対して人見知りもしてしまう。こんな自分を他人に見られたくないと確かに思った。最近ようやく、ありのままの自分を認められるようになってきたと思っていたのに。少なくとも状況に依存する状態だということは分かった。

 職員の方が時間を割いて説明してくれたことに感謝できないこともショックだった。

 まとめると、やっぱり自己否定が根本にある。特に今回のようにアウェー感の強い場所だと、自分の弱さや嫌なところを隠すことに必死になってそれしか考えられなくなってしまう。自己肯定感の無さは、放送大学のテストが終わったことでも実感した。あいかわらず暇になると落ち着かず、何かやることが無いと罪悪感を覚えてしまう。

 思えば僕は何をするにしても自分の中で言い訳している。心理学を勉強するのも興味だけではいけない気がして「将来の仕事につなげていきたいから」。一日の中でだらだらインターネットする時間も「今日はこれだけ勉強したからこれくらいはいいだろう」。外へ散歩へ行く時も「運動不足の解消と日光に当たるために」。そして行動に見合うだけの言い訳が見つからないと、楽しんでいる自分に罪悪感が押し寄せてくる。

 いったいどこから押し寄せてくるのかと考えてみると、自分からではなく母からでもなく、意外にも父からのような気がする。振り返ってみれば意識の片隅にいつも父の姿があって、父ならどう思うだろうか、怒られないだろうかと父を基準に考えている。嫌っているはずなのに喜ばせたいとも思ってしまう。僕が視線恐怖を発症した時期も父から罵倒されまくった時期と重なるし、近くにいるときは怖くて顔を見ることもできない。

 いずれ和解する必要があることは薄々感づいていたけれども、それこそ引きこもり状態から、働いてこの家を出たいと思うほどには避けたいと思ってしまう。でも何とかしたい。まさか職場見学へいって父との問題が浮き彫りになるとは思わなかった。