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親のせいのするのは的外れ?

放送大学で心理学の勉強を始めて20日ほど週間経った。早くも考え方に変化があったので、大きな悩みの一つ「どこまでが親の責任か」を、もう一度考えてみた。

hiki-jiritsu.hatenablog.com

前提が間違っていた!?

心理学の勉強を始めた理由の一つは、僕の性格や悩みの「どこまでが親の責任か(自分の責任ではないか)」、明確な答えを出したいと思ったからだ。でも、ここまで得た知識を使って改めて考えてみたら、「親のせいじゃなければ自分のせい(自分はダメな人間だ)」という前提が、そもそも成り立たない気がしてきた。

人格を作る二つの要因

人格を作る要因は、「遺伝的要因」と「環境要因」の二つに分けられる。僕が両親を責めたいのは、「環境要因が強いと思いたい」ということだ。

実際に偉い人たちの中でも「遺伝ー環境論争」という論争があって、どちらの要因が重要かで意見が割れているらしい。

双子同士の比較から

一般的な双子は、似たような環境で育つ。だから、同じ遺伝子を持つ一卵性の双子と、そうでない二卵性の双子とで性格の似ている度合を比較すれば、どれだけ遺伝子が影響しているか分かるというわけだ。

実際に、性格のある部分では、一卵性の双子の方が遥かに似ることも分かっているらしい。まぎれもなく「遺伝的な要因はある」ということだが、いくら似たような環境(親や家庭)に育っても、もちろん違う部分(学校や交友関係)もあるわけだから、それぞれ分けて考える必要がある。

環境要因をさらに分けて考える

遺伝的要因も合わせると以下のようになる。

・遺伝率(遺伝的要因)
・共有環境(環境が同じだと似る部分)
・非共有環境(遺伝子と環境を共有していても似ない部分)

テキストから図を引用(発達心理学概論 p31)

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思ったより共有環境の影響は少ないな。でも親が社交的じゃないと、そもそも外部と接触する機会も減るから親の影響も大きくなるはずだ。と思ってしまうのは、ただの願望か...。

野生児の例から

野生児というと「オオカミに育てられた少女」が有名だと思う。今は信憑性が低く架空の話とされているらしいが、テキストではそれとは別に、社会から隔離されて育った二人のエピソードが紹介されている。

その二人に共通して言えるのは、発見された当時はいわゆる「人間性」がまるで無く、その後の教育によってある程度は取り戻せたものの、限界があったということ。

つまり、「人は人になる可能性を持って生まれてくるだけ」で、言語をはじめ、規範、道徳、技能など、人間生活で必要なことのほとんど全ては、社会の中で学習する必要があるということだ。それから、ある時期を過ぎると一生習得できない能力があることも分かる。

整理すると―

ここまでを整理すると、遺伝的要因と環境要因はどちらかが100%ということはなく、どちらも重要ということが分かる。親からの影響はやはり大きいということも。特に僕の両親は社交的じゃないから、そもそm(ry

ここで一つ問題が出てきた。今まで環境要因以外の部分が「本来の自分」だと思ってきたが、この考え方だと遺伝的要因しか残らない。でも遺伝子は僕が作ったわけではない。それだと、本来の自分なんてものは無く、全てが機械的に作られたことにならないか。

意識って何だろう?

そもそも意識って何だろう?と思って、図書館から「知能と心の科学」という図解を借りてきた。その本によると、意識が発生する仕組み以前にその定義すら曖昧で、それでも科学者たちが、それぞれのアプローチから核心に迫ろうと研究している状態らしい。

意識というと脳の一部が活動するイメージを持っていたが、その脳だってたくさんの神経細胞(ニューロン)からできてるわけで、一つ一つのニューロンに意思があるわけでもない。「意識が生まれる仕組みは今後も解明できないかもしれない」と主張する学者もいるらしいから、もちろんここで納得できる答えは得られないが、いくつか面白い話が載っていた。

夢遊病について

深い眠り状態(ノンレム睡眠) のときに、さまざまな行動をしてしまうことを「夢遊病」という。ことば自体は聞いたことがあったが、改めて考えてみると不思議だ。

中には車の運転までする人もいるらしい。(意識が無いのに)さらには「行動する際に意識は必ずしも必要ない」とまで書いてある。

自由意志について

ある実験によると、被験者が自ら指を動かそうとする0.5秒ほど前から脳内ではすでに活動が始まっていて、さらに実際に指が動いたのは0.2秒ほど前だったとある。知覚したことを、まるで自分の意思だと錯覚しているということか?

これに対する科学者の意見はさまざまで、いわゆる「自由意志」がないという考えや、むしろ事前に脳の活動が無いほうが不自然だといった考えがあるらしい。

「意識は思考や行動を支配しているのではなく、自分自身の置かれた状況や思考、行動などを把握するためのチェック機能として働いている可能性がある」と締めくくられている。

自分を支配しているつもりでも

「支配」という言葉が出てきて、少し前に読んだ「飛び跳ねる思考」という本を思い出した。

作者の東田さんは、ほとんど(声に出して)会話できない重度の自閉症だが、その独自の感覚を文章で表現することができる。僕が初めて彼を知ったのはYouTubeのある動画だったが、一見自由奔放にも見える行動と、(文字盤を指しながら)話す言葉のギャップに驚いた。

例えば、やるべきことが他にあるのに、窓から見える景色(興味のある車の車輪)にずっと見入ってしまう。しかし彼はその状況を、客観的に見ることができている。頭では分かっていても、自分の意思で動くのが難しいという。本の中にも、「まるで壊れたロボットを操縦しているようだ」と書いてある。

考えてみれば僕だって、自分の意思とは裏腹に他人の視線が気になるし、電話では緊張するし、両親への怒りは湧いてくるし、自分をコントロールできているとは言い難い。その度合が違うだけかなと、今になって思う。

もう一度整理すると―

こうしてみると、自分で意識してコントロールできることの方がずっと限られていると考えるほうが自然かもしれない。そういえば、心に限らず体だってほとんど自動で動いてる。

とりあえずの結論

もし遺伝的要因と経験的要因しかないのなら、人格は機械的に作られていることになる。どんな現状であれ、なるべくしてなったんだから自己否定する必要はない。だから両親を責める意味もない。

もし第三の要因があるのなら、それが「本来の自分(魂的な何か)」かもしれない。
遺伝的要因と環境要因によってある程度の方向性は決まってしまうが、そこからさらに「本来の自分」によって選択の余地がある。そしたら両親は環境要因の一部にすぎず、ある程度の方向性を決めるために必要だから、やっぱり責める意味がない。